2016年12月15日木曜日

曲学阿世の徒との誹りを免れかねない

昔の人がよく言った曲学阿世の徒ということばがある。

曲学阿世とは。意味や解説。学問の真理にそむいて時代の好みにおもねり、世間に 気に入られるような説を唱えること。
真理を曲げて、真理によらないで世間や時勢に迎合する言動をする こと。

そういうことをしているのではないかと自らを顧みることもなく、世人を自分の思惑のもとに惑わす如きを喧伝して憚らない輩を、曲学阿世の徒ということができよう。

それを唱える人たちは、人々が防衛本能からくる判断や行動を否定しようとでも言うのだろうか?
その本人自体に危害が及ぼうとしたときには違うことをやるのではないのか?

例えば、暴漢が棒をもって襲い掛かってきたとき、両腕をもって防ごうとするのが普通。
その、防御のためにかざす両手が、自衛隊そのものなのではないのか。
更には、その人の家族に殴りかかっている人がいたとしたとき、家族を見捨てて助けようともしないとでもいうのだろうか?その助けようとする姿勢が、集団的自衛権そのものだと思うのだが。

平時に置いて、他から安全を確保されている状況下で、好き勝手を言うのは潔くない。
平和を守るのは、自分以外の誰かがやるものだとするのは通らない。
金科玉条としている憲法第9条が絶対だと思うのなら、世界の共通認識として実効あると思われる働き方を、広く世界に向かってしているというなら別であるが、そんな様子はない。
ひとり自分だけ、我が国だけが良ければ、とするのでは、誰からも相手にされなくなるのは、考えてみるまでもなく解ること。
世界の実情も判らずに、脳天気なことをいう者として、国際的には退けられて終わりであろう。

厭であろうが嫌いであろうが、仮令命がけとなるにしても、果たさなければならないことというのは有る。自分さえ良ければというわけにいかない。

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