2016年12月1日木曜日

何故靖国を参拝するのが悪だと日本人が言うのだろう?

普通に考えて、殴っても反撃される恐れのない相手は、場合によっては殴られて終わりになる。
反撃する能力があっても、反撃はしないと明言していれば同じことになる。

こちらがどう思っているかには関係なく、相手の都合まかせになるという危険を持つ。
しかし、攻撃されたら確実に反撃できる能力を有し、こちらから攻撃することは無いが、侵犯してくれば抑止力としては十分な能力が整備されており、応分の対応をすることを明言すれば、その危惧は極端に少なくなる。

自分の身は自分で守るというのは、生物の第一次的な出発点であるのではないのか?それは自分以外の誰かがやれば良いのだとするのは、自己逃避というより無責任の誹りを免れることはできまい。
守ということに気概を示してくれている人たちを軽んずるのは、もっと無責任だと感じてしまう。
そういう人達の口癖は、法理だというが、法を守って自分が滅びてしまうのでは、本末転倒であろう。
滅びたいことを選ぶ人は、それこそ皆無に近い筈である。イデオロギーの道連れにしないで欲しい。

日本は攻めるのではなく近海を守れば良いのだから、対応はしやすい。
他国が日本を攻めるためには空母が必要となるが、空母は有ればよいというわけではない。空母を運用するのは難しい。
空母を擁する機動部隊を持ち、実際にそれを運用できたのは米国・日本・イギリスくらいのもので、実績的には米国と日本であるから、海洋国である特質を持っていることからの経験差は大きい。

次に、靖国の問題であるが、我が国は死ねばみな仏や神になるという文化を持つ。敵も味方もなく死者に対しては尊崇の念をもって祀る。
よくA級先般を合祀しているから怪しからんと、日本人の中にも言う人がいるが、A級とは罪の重さのことではなく、A級・B級・C級というのは罪刑上の重さのことではない。ましてや「永久」に許されないと勘違いするなどはもっての外のことである。
開戦前の上層部は、米国と日本のGDP差が10倍であり、石油に至っては270倍もあることを知らなかったわけではない。物量に圧倒的な差があることから、なんとか戦争にならないように努力していたことがわかる。
そういう判断根拠を知らなかった国民が、日清・日露の勝利に味をしめ、開戦を煽らなかったとは言えまい。新聞もそれをした。
一部の人たちのせいにして頬被りするのはいただけない。

軍人は、腰抜けと言われることを恐れる。乾坤一擲、なんとか緒戦に勝利し、早期の講和を図ろうとして失敗に及んだのだということに思える。
確かに無理筋には違いないだろうが、座して死を待つわけにもいかなかったというのが、普通に見たときの感想である。
憎ければ、墓を暴いてまで恥辱を与えるという特亜3国の文化とは違うのである。
尊い命の代償を、のちの平和のために祀るのが、自然の気持ちなのだと思うことを、一致して世界に知らして欲しいものである。
靖国参拝イコール歴史の否定、軍国主義を復活して戦争、などとの言は虚言妄言としか思えない。



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