2016年12月16日金曜日

援助物資だけではなかった援蒋ルート

米・英・ソ連などが蒋介石の率いる国民党政府に軍需品や石油などの支援物資を送り込んだ「援蒋ルート」というのがある。
米国は当初、中立の立場をとっていたが、蒋介石の要請を受けて借款を実施した。
日本軍が仏領インドシナに戦線を広げるにつれて、中国への軍事支援を拡大した。

日米開戦の前のことである。義勇軍をよそおって、フライングタイガースという部隊が参戦していた。
アメリカ陸軍航空隊大尉であったクレア・L・シェンノートがルーズベルト大統領の後ろ盾を受け100機の戦闘機と100名のパイロット、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集めた航空部隊でアメリカの中立という立場から「義勇兵」という形で、中華民国軍の兵籍に入った。
ほとんどは米軍人で退役の形をとってはいたが、米軍復帰は約束されており、真珠湾攻撃前の狡猾な方法によるアメリカの参戦であり、中立違反であった。

日本の対米英開戦の後、欧米列強の植民地は日本軍に占領されていく。
フランスやオランダはすでに欧州戦線でドイツに降伏しており、アメリカとイギリスにとっては、中国の抗戦力の維持が極めて重要となった。
このため、物資の提供と、作戦協力の両面から中国を支えた。
援蒋ルートは、中国の生命線を握っていたので、アメリカとイギリスはこの輸送路を守るために中国軍と共同して戦った。その最大の攻防は雲南省、ビルマで展開した。
42年には、蒋介石はアメリカのルーズベルト大統領の提案で連合軍の中国戦区司令官に選ばれ、戦区参謀長としてスティルウェル将軍がアメリカから派遣された。
日本と中国の戦争は、実際にはこのようにして、日本対中国・アメリカ・イギリスという構図に広がっていった。
ソ連もまた、日ソ不可侵条約が締結されるまで、独自に新疆方面などから中国に支援物資を送っていた。
欧州でのドイツ戦に専念するために、日本軍を中国に釘付けにしておく必要があったのだとされるが、昔の人たちしか知らない。

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