最近ヨコモジの表現が矢鱈に多すぎるように感じる。日本語は大抵の外来語に訳語があるのに、どうしてそれらを使わないのだろうか?
逆に、日本語を外国語に訳せないものは沢山あるのだという。
木漏れ日。なんと美しい情景を思い起こさせることばであろう。
松籟・・・松の梢 に吹く風の音、これを感じ取る感性も、多分外国語にはあるまい。衣擦れなんていうのもある。
訳せない擬音語も多いというが、音に対する感性が並外れているのだと思う。
幽かなものでも大事にする日本人の徳性は、勿体ないという語を生んだ。
思いつくままに日本語の美しい表現を拾ってみるだけでも、次から次へと出てくる。
小糠雨 五月雨 小夜時雨 日照雨(そばえ) 雨足 雨上がり
薄氷(うすらい) 朧月 陽炎 名残雪 花曇り 花冷え 細雪 雪明り 花衣 玉響(たまゆら) 草紅葉
心配り 力添え 泡沫(うたかた) 紅差し指
このほか、心情を表す表現ともなれば限りなくありそうである。いずれも相手を慮ってのものであることが多い。良心の呵責などというのは自然に備わって自分を律する言葉であり、他から押し付けられるものではない。
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