2018年10月19日金曜日

この人しかいないと思った人でも

多くの男女は、「この人しかない」一生愛し合って仲良く暮らしていくと決心して結婚する。
しばらくは、相手のすることの全てを受け入れ許すことが互いにできるが、日が経つにつれその熱が冷めてくると、相手に対し不満を持つに至り、やることなすこと全てが気に食わなくなって憎み合うようにさえなる。

自分のことより相手を優先して考えられるうちは良いが、いずれは自分中心の考えが頭をもたげてくるのは世の常だから、致し方ないといえば致し方ないことなのかも知れないが、そうなってもせめて、人の道を外すような言動をするような事態にならないことを願う。
小さな諍いがエスカレートし、腹立ちまぎれに、人として決して口にしてはならないことを言ってしまった場合には、不幸なことに離婚の憂き目にあう。
「初心忘れる事なかれ」というのは、至言である。

中国に余桃(よとう)という言葉がある。
同じことをやっているのに、捉え方で全く逆の評価をされてしまうときなどに使われる。

衛の弥子瑕(びしか)は、自分の食べかけの桃を美味しかったので、王に分けて喜ばれた。
王いわく「自分が食べたいのにそれを我慢して分けてくれるとは、愛い奴じゃ。」ということであった。
衛君に愛されていたうちはよかったが、容色衰えてから、そのことを理由に罪に問われた。
曰く「弥子瑕(びしか)は実に失礼な奴じゃ。むかし儂に自分の食べかけの桃を食わせたことがある。」

 広辞苑の説明にある意味以外に、愛憎の変化の甚だしいために、思わぬ罪を 得ることがあることのたとえとしても使われます。

若い頃の弥子瑕(びしか)は衛の国一番の美少年で、衛の君主の寵愛を受けていた。
ある時、夜中に母が病気になったという知らせを受けた弥子瑕は、許可を受けたと偽って勝手に君主の馬車を使って母の下に駆けつけた。
本来であ れば、君主の馬車を勝手に使ったものは足切りの刑に処せられるのであるが、この話を聞いた君主は、「母を思うあまり、足切りの刑を忘れてしまうとは、なんと親孝行な者
ではないか」といってその罪を赦し、かえってこれを褒めた。
ある時、君主と果樹園に遊んだとき、もぎ取って食べた桃がとても美味しかったので、自分の食べかけの桃を君主にも食べてもらおうと、これを手渡した。
「美味しいものは誰でも食べたいものだが、美味しい桃を食べれば、私食べさせたいと思うとは、なんと私を思う心の篤いことか」と、またこれを褒めました。
こんな弥子瑕でしたが、年月を経ると悲しいことにその容色は衰えて行きました。
容色が衰えるとともに君主の寵愛も失われました。
こうなってしまうと、かつては賞賛の対象であった行いの数々も違った目で眺められるようになります。
君主は云います
「この者は以前、私の馬車を勝手に乗り回し、自分の食いかけの桃を私に食べさせるという無礼をはたらいたことがあった怪しからん奴じゃ。」

孔子の言葉に「愛してはその命長からんことを願い、憎んではその死を願う。これ惑いという。」
というのがあるという。


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