2018年10月23日火曜日

音のだ仕方が違うんじゃないのかと思うとき

クラシック音楽が好きなのでよく聴きます。
中でもピアノの音色は美しい。例えようもなく妙なる音がしみわたってくる。
クラシック音楽の優れた作曲家は、もはや神に近かったのではなかろうかとさえ思ってしまう。

しかしそれも、優れた演奏家が限りなく譜面に忠実に弾いていてくれるからだと思う。
演奏家の解釈やその弾き方を否定するつもりはないが、余りに自分が出過ぎている演奏をされると、それは違うんじゃないのかと素人ながら感じてしまう。

殊にそう感じてしまうのは、打突音が聞こえてくるときです。
コツコツと木質部にあたる音が甚だしい演奏や、指や爪が鍵盤に当たる音を平気で出している演奏を聞かされた時にはさらに幻滅します。
弦の鳴る美しい音はどこかに行ってしまって、不快な音だけが残るからです。
更に言えば、弦が伸びてしまったようなビエンビエンという音が出ていて平気な演奏者もいる。

Pの音が出せない人は、Fも怪しい。
f(フォルテ)といっても、いろいろなfがある。
激しいf。感動のf。どっしりした重厚なf、雷のような鋭いf。
その中のどのイメージが、譜面上要求されているfとして必要とされているかを感じ取れないのでは、優れた演奏とは言えまい。強く鍵盤を叩けばよいのではない筈です。
ただ音を並べているのと違い、「表す」ものには、作曲者の魂が入っているのであり、それを汲み取る感性がない演奏では、感動は得られない。
独りよがりな身振りや顔つき、乱暴に見える鍵盤への打突は、演奏者の自我を見せつけられているようで辟易する。

そのような演奏者は、「どうしてそのように弾くのか?」ということも解かっていないように思える。多分ご本人に聞いても説明はできまい。
それは意味も考えずに弾いているので、自分がどう弾いているのかすらわかっていない場合もありそうである。
一方で、「こう弾きたい」という気持ちが丸出しの演奏をする人もいます。
「誰が何と言おうと、私はこう弾くんだ!」というようなものであっても、練習に裏打ちされた主張なのであれば、それはそれで納得できる。
作曲家やその時代に合わない弾き方になってしまっている場合は如何かと思うが、弾く人の想いがあれば「そう弾きたい」という考えが伝わってくることはある。

ピアノという楽器は鍵盤を押せば、取り合えずその音階の音は出るが、それが美しい音色として紡ぎ出されるためには、たゆまぬ練習と音楽に対する謙虚さが必要なのだと思う。
パフォーマンス宜しく鍵盤を叩きまくる演奏では、それとは程遠いものになろう。
ショパンは、指が鍵盤から離れず滑るように移動したということすら知らない演奏では、なんともなるまいに・・・

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