2018年12月21日金曜日

中国はどうする?


米中貿易戦争などと言われているが、日本だって米国とは貿易問題で揉めた過去がある。某国のように技術をぱくったり、不公正な方法により輸出を増大させ、問題が提起されたら報復手段をとるなどということをしたのではないが、対応上、外に米国に代わる活力を求めようとしすぎたかも知れない。
中国も韓国もそうであるが、日本にもその責任の一端はあるだろうが、「急激に経済を発展させすぎた」。それが世界の平和には影を落とすことになったかも知れない。
日米摩擦が起きた時、対抗手段をもって強硬に対応したのではなく、知恵を振り絞って、血の滲むような努力を重ね、要求されたことを乗り越えてきたのである。
問題が起こったのは、経済の発展を目指し、基礎研究・技術革新、それにもましてひた向きに勤労に励み、少しずつ発展を遂げていた頃のことであった。
追いつけ追い越せということで必死だったことがようやく実を結びかけた頃のことである。
日本の競争力を持った商品が、米国市場で受け入れられ、彼らの市場が脅かされるのは面白くなかったに違いないから、いろいろな圧力が強かった。
60年代後半には、日本の繊維輸出が問題となり、72年(自民党佐藤/共和党ニクソン)に、日米繊維協定が締結された。
それにより、紡績工場で泣く泣く紡績機が大量に破壊されている写真が新聞を賑わせた。77年(自民党福田/民主党カーター)には鉄鋼・カラーTVで日本が対米輸出自主規制を導入した。米国のUSスチールが打撃をうけていた。
80年代(主に自民党中曽根/共和党レーガン)に入ると、自動車や農産物(米、牛肉、オレンジ)の日本の輸入が問題とされた。
このころは、輸出された日本の自動車が、米国人にハンマーで破壊されてるショッキングな映像が放映されたりもした。
それでも、貿易収支の均衡には至らず、プラザ合意などということにもつながった。よく日本がつぶれなかったものである。
レーガン政権下での急激なドル高に対して、859月には日米を含む主要先進国によるプラザ合意があり、ドル安誘導が行われた。86年には日本の内需拡大や市場開放を提言した前川レポートが発表されている(同レポートは後のバブル経済へとつながった)。日米半導体協定の締結もこの年だった。
ドル安円高の進行や日本の各業界の努力にもかかわらず、日米貿易不均衡はほとんど修正されなかった。当時、ドル安になっても米国の貿易赤字が減らず、為替レートの変動が貿易収支に影響するまでタイムラグがあるために発生する「Jカーブ効果」という言葉が流行した。
そうした事態に苛立ちを隠せなかった米国は、88年(自民党竹下/共和党レーガン)に包括通商競争力法を制定。その中で74年通商法の対外制裁に関する条項を強化したスーパー301条を導入し、一方的な制裁の発動を可能とした。日本でも衛星やスパコンなどいくつかが特定されたが、日米間で合意が成立して制裁発動は回避された。言い換えれば、スーパー301条をちらつかせ、その発動回避のために合意を強制するだけの効力があったということである。
さらに、対外収支の不均衡は貯蓄と投資のバランスを含めた経済構造に原因があるとして、89年(自民党海部/共和党ブッシュ父)に日米構造協議がスタートした。そこでは、日米の貯蓄・投資パターン(日本の貯蓄過剰、米国の投資過剰)のほか、日本の流通や商慣行、米国の企業行動や労働訓練などが俎上に上った。向こうのやりかたに合わせろというのである。
しかし、どのような圧力をかけても、それを日本が乗り越えてしまうことから、日本の弱点を探った結果、金融に楔を打ち込むしかないということになり、それが郵政民営化の隠れた圧力となった。郵政が民営化された結果、その後の日本の国力は衰えたといえる。
この頃が、日米貿易摩擦が最も激しかった時期だった。
79年に「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とも言われた日本の経済的成功も、それ以後は日本を経済的な「敵」とみなして、ジャパン・バッシング(日本叩き)という言葉が流行り、「Containing Japan(日本封じ込め)」や「The Coming War With Japan(日本との戦争は不可避だ)」といった危ないタイトルの雑誌記事や書籍も目に付くようになった。
90年代に入っても、日米貿易摩擦は続いた。日本の経済力は米国にとって引き続き脅威と映っていたのだろう。
象徴的な出来事が95年春に起こった。94年後半に100円前後で推移していたドル円が95年に入って急落、419日には一時80円割れを示した。「超円高」となったのであった。
89年に始まった日米構造協議は90年にほぼ決着した。
93年(自民党宮沢/民主党クリントン)には、それを発展させた形で日米包括経済協議がスタートし、新たに知的所有権、政府調達、自動車、保険、金融サービスなどの分野が協議された。
日米包括経済協議は96年末までに全ての分野で決着した。この頃から日米貿易摩擦は急速に下火になっていった。95年に就任したルービン財務長官は、「強いドルは国益」との発言を繰り返し、それまでの米政権による円高圧力から180度転換してみせたのであった。
GATTのウルグアイ・ラウンドが妥結して95年にWTO(世界貿易機関)が設立され、国際的な通商ルールを協議する正式な場ができたことも影響したかもしれない。
ただ、日米貿易摩擦が弱まった最大の原因は、日本経済が凋落し、その一方で米国経済が活力を取り戻したことではないだろうか。バブル崩壊の後遺症に苦しむ日本経済は、97年の山一証券破綻、98年の金融危機などを経験した。
そして、米国経済はIT革命によって劇的な回復を遂げたのであった。
もはや、日本は米国の脅威とは見做されず、「ジャパン・バッシング(日本叩き)」に代わって、「ジャパン・パッシング(日本素通り)」や「ジャパン・ナッシング(日本は何でもない)」といった言葉も聞かれるような時代になった。
いつであっても、日本は正攻法で物事を考え誠実に対処する。
核兵器を作って力で対処することを考えるようなことはないが、自国の防衛ということについては、中国や韓国の言う事を黙って聞いているわけにはいかない。どう見ても信頼できる相手であるとは思えない。

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