2018年12月6日木曜日

3.1運動だって?


韓国人は、日本との独立戦争を戦って独立をしたように教え込まれているようだが、そんな事実はない。
独立は、棚ボタであったのだが、隠蔽教育は徹底されているらしく、本気で日本と戦ったと信じている若年層が多いようである。

確かに、彼らが言う三・一独立運動というのはあった。
191931日、日本の植民地になっていた朝鮮で知識層や学生がソウル(京城)で日本からの独立を宣言をした。 
宣言をしただけなので、実際に政権を奪ったり、自治を始めたわけではないが、公然と自治独立を求めたこの行為をきっかけに各地で反日、反植民地支配の独立運動が広がっている。
直接のきっかけは大韓帝国初代皇帝高宗の葬儀である。
高宗の死は自然死であったと考えられているが、例によって韓国国内にはいろいろな噂が出回った。
いわく、「自分の息子が日本の皇族(梨本宮家方子)と結婚するのが悔しくて毒を飲んだのだ」
「韓国を日本に併合してくれと自分が頼んだのだ、という文書をパリ講和会議に提出しろと言われて、断ったために殺されたのだ」など、事実無根ではあるが、そんな噂が出るほど韓国皇帝の立場に民衆が同情していたとも言える。

33日に国葬が行われることになっていた為、この日に向けて計画が立てられた。
三・一独立運動で独立宣言書の読み上げに参加したのは、たったの33人で、中心となったのは天道教やキリスト教、仏教の指導者であった。

独立宣言書は天道教の印刷所で印刷され、各自の宗教ネットワークを通じて各都市に配布された。
独立運動によるデモは600か所以上で起き、参加する人も学生や知識人から始まって、農民や官僚、貴族までほぼすべての階層を巻き込む大規模なうねりとなっていた。

最初は平和的な手段、デモ行進やストを行っていた独立運動も、次第に憲兵や警官のいる駐在所を襲ったり、投石や放火も行われるなど、治安部隊との衝突も激しくなっていった。

日本政府は朝鮮総督府を通じてデモの鎮圧を急ぎ、警察の他軍隊を投入して首謀者の逮捕、武力による鎮圧を進めた。当時としては当然な対応である。
事件の最初、マスコミは事件に批判的で「朝鮮各地の暴動」、「三・一暴動」などと伝えられた。

しかし、だんだんと日本の統治方法が良くないのではないか、という論調も出てくるようになり、武力でいうことを聞かせるのではなく、朝鮮人の待遇を改善したり、軍関係者以外でも総督になれるようにするべきという意見ものるようになった。

大正デモクラシーの主導者であった吉野作造は独立を支持し、のちに総理大臣となる石橋湛山も独立運動に理解を示しています。そこが西欧植民地国とは違う。
2か月ほどでこの独立運動は終息し、四月中には新たな騒ぎは起こらなくなった。

その後朝鮮では第二次世界大戦の終戦までの二十数年間、大きな独立運動は起きていない
事件後、日本が統治政策を転換したためとも、首謀者が国外に行ってしまったためともいわれている。
朝鮮総督府は三・一以降、以前の締め付けの厳しい統治体制を改め、言論や集会の自由をみとめるようになった。
陸軍の軍人が警察を務める憲兵警察制度もなくなりました。日本はこの独立運動を受けて、朝鮮支配をよりソフトな形に変えていったのである。

どちらかと言えば、第二次世界大戦が終了し、李承晩が政権を打ち立ててからの方が日本が統治していた時代より酷かった。
彼は世界でも指折りの、自国民を多数殺した指導者の一人に数えられる。
彼の犯した悪行を、日本人のせいにして教えていることも多そうである。
歴史を歪曲どころか捏造しなくてはならない事情があったにしても、ミジメとしか言いようがない。

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