2019年1月18日金曜日

北方領土という言い方しかない


氷雪の門(ひょうせつのもん)は、北海道稚内市の稚内公園内にある。かつて日本領土だった樺太で亡くなった日本人のための慰霊碑である。
昭和388月に樺太島民慰霊碑として本郷新の彫刻により、地元の樺太関係者の手で建立されたもので、 両側に高さ8mの門(望郷の門)があり、中央に2.4mの女性の像がある。
女性の像については、顔は戦争で受けた苦しみを、手のひらを見せているのは樺太も家族も失ったことを、足はその悲しみや苦しさから早く立ち上がることを表しているとされている。
樺太で亡くなった全ての日本人が対象であり、第二次世界大戦終戦後のソ連軍により亡くなった日本人だけを対象としているわけではない。
ここに立つと涙なくしては帰れない。

ソ連軍は日ソ不可侵条約を一方的に破り、敗戦間際の日本に襲い掛かったのである。
しかも8月15日に日本は降伏したのに、ソ連軍は戦争をやめないで侵略を続けた。
北海道まで占領しようと目論んだらしいが、流石にそれは適わなかった。
ソ連の戦車は、今はサハリンと呼ばれる樺太で国境線を突破、南下して日本の将兵のみか婦女子も多数殺(さつ)戮(りく)した。
死亡者は、引揚船が撃沈されたこともあり、四千数百人にのぼる。ソ連が樺太全域の占領を目指したからであり、終戦5日後の8月20日、南の真岡(まおか)にソ連海軍は艦砲射撃を加え上陸した。そのソ連軍のもとへ停戦交渉に赴いた日本側軍使一行は白旗を掲げていたが、射殺された。次の軍使も射殺された。戦犯行為である。街には火災が発生した。

 真岡の名は日本の辞書にはもうないが、世界地図にはホルムスクと出ている。戦争中は人口2万、全人口が40万の南樺太では大都会だった。その真岡郵便局に踏みとどまって最後まで勤務した9人の電話交換手の少女たちは、ソ連軍が迫るや、「皆さん、これが最後です、さようなら」の通信を豊原に送って青酸カリで自決した。

北方4島の返還交渉ということであるが、樺太の南半分も日本領だったのである。それを戦争終了後にソ連は略奪したのだということを忘れてはならない。

先年ロシアはウクライナに侵攻したことで、西欧諸国からの経済制裁を受けていて苦しい。
打開策としてシベリアの開発をせざるを得ないが、日本の援助なくしてそれは不可能だからすり寄ってきているのであろうが、この期に及んでも強硬姿勢を崩していない。
不法占拠したのに、ロシア領となったことを認めろとは何たることか。


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