2015年6月14日日曜日

法というのはなんの為にあるの?

時代が変れば、言う事ややることが変ってくるのは、国益上の思惑や政策上から当然だと思う。
「前に言っていたことと違うじゃないか。」と言ったところで仕方がない。

昭和39年、社会党の佐々木更三委員長が毛沢東主席に
「中国国民に多大の損害をもたらして申し訳ない」と挨拶すると、毛沢東主席は言った。
「何も申し訳なく思うことはありませんよ、日本軍国主義は、中国に大きな利権をもたらしました。中国国民に権利を奪取させてくれたではないですか、皆さん、皇軍の力なしには我々が権利を奪うことは不可能だったでしょう。」

昭和52107日にトウ小平主席は言った。
「毛主席は、常々過去のことは水に流そうと言われた。しかも実際は、日本が中国を助けたことになっている。
日本が蒋介石を重慶まで押し下げて呉れたので、我々は日本軍の占領地域の後方に広がった。
そして八年間に三万から百二十万に迄増えたし、さらに数百万の民兵まで作った。
我々は、百二十万を以て三年間で蒋介石軍を打ち破った。それゆえ皆さんだけを責めるのは不公平だと思う。」

しかしながら、時代が移れば南沙諸島の問題やら尖閣列島の問題やらが起こって来るから、そういう世界情勢に対応することも考えておかねばならないのだと思う。

私は別段改憲論者ではないが、世界情勢や国内情勢が何十年か経てば変わるから、法を全く変えることなく対応できるとも思えない。
法は、守ることが目的ではなく、守るべきものを守れるようにしていくことが目的の筈。

国の将来を真剣に考えたら、改憲も護憲も双方の意見が公平に述べられる場があって、それに基づいて国民が判断できるようにしなくてはならないと思うのだが、メディアを含め、声高に叫ぶ護憲論者の意見しか目にしたことがない。
気になるのは、国民を揉まして二分するのではないかと思えるような言い方をする感情的な人がいなくもないこと。
意見を擦り合わせて良い方法を目指すときは、知恵を出し合わねばならないのだから、聞く耳持たぬというような押し付け合いなしに、皆が判断できる資料を提供して欲しいと思う。


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