2015年12月20日日曜日

余り知られていない親日国

我々日本人が知らない昔のことを多として、親日感情を抱いていてくれる人が多い国というのは世界に沢山ある。嬉しいことです。
何か国かを、その理由と共にリストしてみました。

台湾
日清戦争に勝利した日本は、日清講和条約により清王朝から台湾を割譲されたことから始まる。
初めは欧米諸国と同じく資源の一方的略奪と、安価な労働力の収奪による植民地支配を計画していたが、1898年児玉源太郎が第4代総督になってからはその方向性を次第に修正し、莫大な国家予算を費やし、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成を行うことにより台湾の近代化を推進した。烏山頭ダムが有名。
1919年からは台湾民衆を完全な日本国民として遇し、国家国民としての観念を植えつけた。
台湾元総統の李登輝は、21(1945)まで自分は日本人であったと表明している。

トルコ
エルトゥールル号遭難事件というのがあった。
1887年オスマントルコ帝国は、皇族・小松宮夫妻の訪土の返礼としてトルコ軍艦をわが国に派遣してきたが、その帰途、和歌山県串本市沖合で座礁、機関部が爆発して沈没した。生存者は67名、死者589名という大惨事であった。
このとき、地元串本の人たちはトルコ人乗組員に対し、必死の救助活動と食糧の炊き出しなど、貧しい暮らしの中、自分たちが食べないでも篤いもてなしをした。その後生存者は、日本軍艦で無事トルコに送り届けた。このことはトルコ人に大きな感動を与え、この遭難救助については現在のトルコの小学校の教科書にも取り上げられているのという。
そんな昔のことを恩義として、イラク戦争の時には日本が邦人の救出に行けなかった程の危険をおかして、救助機を飛ばしてくれたことは、もっと感謝すべきことだが、知る人が少ない。

ポーランド
第一次世界大戦後、ロシア革命の内戦中に多くのポーランド人はシベリアに抑留されていた。
極寒の地で次々と命を落とす中、ポーランドは両親を失った子どもたちだけでも救おうと、救命嘆願書をアメリカやイギリスに求めたが返事は来ず、唯一返事をしたのが日本だった。
1920年から22年にかけて計5回、765人の孤児たちが船で日本へ運ばれ、想像もつかないほどの温かいもてなしを受けたのだという。
日本に到着直後のポーランド孤児たちはチフスを患い、頭にはシラミがたかり、餓死寸前の子もいるという最悪の健康状態だったが、日本赤十字の看護師たちが懸命に看護した。全国から寄付も集まり、子どもたちは元気を取り戻した。
2年後、1人も欠けることなくポーランドに戻った孤児たちは、終生その体験を語り継いだといわれている。

フィンランド
100年以上前に、フィンランドの歴史に名を刻む日本人がいた。新渡戸稲造、ご存知の通り五千円札の肖像に使われた人物です。当時、国際連盟の事務次長だった新渡戸は、フィンランドとスウェーデンの間で起こっていたオーランド諸島の領有権争いを、後々まで「新渡戸裁定」と呼ばれるようになった画期的な方法で解決したのだ。
その解決法とは、なんと「オーランド諸島は、フィンランドが統治するが、言葉や文化風習はスウェーデン式」という意外なものだった。
そのおかげでオーランド諸島はいまや平和モデルの島となり、領有権争いに悩む世界各国の視察団が来るまでになった。「新渡戸さんをとても尊敬している。だって、彼がこの島を平和にしてくれたんだから」

インド
英国からのインド独立運動で、日本は力を貸した。日本兵は、インドの独立運動において、共に戦ったのだという認識がある。チャンドラボースは有名である。

「極東軍事裁判」でのインドの判事、ラダ・ビノード・パールは、「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」として、被告人全員の無罪を主張した。

米国の原爆投下に対しても、ナチスのホロコーストに相当する残虐な行為である、と明言している。

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