2015年12月24日木曜日

言論の自由と結果責任

何を根拠かしらないが、むかし北朝鮮が地上の楽園だと言って喧伝した作家がいた。
そこが地上の楽園だ等と思う人は、今や皆無に近いだろう。
しかし、そのことが判った今になるも、そのことについて弁明したことがあるとは聞いていない。

AIIBのバスに乗り遅れるな!と大声を上げていた人たちは、現状をどう判断しているのだろう?
最近、かなり怪しい雲行きになってきているように聞くことの方が多い。

「国際紛争を話し合いで解決しろ」と言っている人たちは、本気でそう思っているのだろうか?
話し合いで解決するならそれに越したことはないが、国際社会は日本人みたいにお互いが仲良くしようという「和」の精神など共有してはいまい。日本人とは違うのである。
現実問題として話し合いで決着しないから紛争になっているが、それでもいきなり戦争ではあるまい。
自分なら命がけで話し合いをもって解決してみせる、というのであれば説得力を持つが、自分は安全な所に居て、誰かがそれをやれ!といっているに過ぎないように見える。

言論の自由が保障されることに疑義を感じるわけではない。
しかし、自分が言ったことについて責任を持つという義務は果たさねばなるまい。
自分が言ったことに関連して不利益を蒙ったとしても、その不利益を排除しなければならない、ということまでもが言論の自由ではないのである。
何を言っても許されるが、言ったことには責任をもってね、ということ。

そもそも権利と義務は対のものであって、言いっぱなしで良い筈はないし、自分の思い通りにならないことをもって、差別だの圧力だのという主張はイタダケナイ。
自分の主張が大多数の意見なのだという勘違いも、振り返って検証してみて欲しい。
自分の周りに集まっている人はそうであっても、他にそれとは反対の意見を持つ人が大多数なのだということはある。

民主主義を叫ぶなら、大多数がどう考えているかを謙虚にみつめなおすべきで、この意見に従えない人は馬鹿なのだと言わんがばかりの論調は、反感を招く。
思いあがらないで欲しい。声の大きい人の意見が大多数のものではないのだから。

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