2018年1月18日木曜日

文句を並べ立てるのが識者?

TVをつけたら、識者に聞くとかいうのをやっていたことがある。

識者というのを辞書で引いてみると、物事に対して正しい判断を下す力のある人。学識・見識のある人。ということになっている。
だが、この「正しい」というのが、どうにも曲者に思えてなりません。何をもって正しいとするのか?ということです。

呼ばれて出演していた識者というのは、司会者或いは主催者の思惑に、いかようにでも合わせることができる能力は確かに持っているようであるし、自分が普段唱えている主義主張に合致させる為なら、論点をすり替えてでもそこに結論を持っていこうとする執念もまた、確かに合わせ持っているように思えます。
しかしながらそれらは、国民国家・社会の為にというよりは、捉われた自説に従ってということであって柔軟性には乏しく、あくまで自説を曲げないためのようにしているとしか思えてならない。
周りの状況が変わり新しい条件が加われば、考え方に変化があってしかるべきだと思うが、他人の主張を聞くよりも自説を押し付けたがっているようにしか見えない。
イデオロギーというのは、協調性を育むにはそぐわない考え方なのかも知れない。他の価値観を否定しないと、理論を構築できないということなのか、聞く耳というのがない。
与えられた諸条件のなかで、最も良いと思われる意見にまとめるということよりも、自分の主張を絶対正義と思い込んでいるらしいのが、不思議といえば不思議なのだが、どういうわけかそれを国民の代表する意見のように信じ込んで物をいうから、尚不思議になる。

まあ、それは個人個人の考えだから良いとして、司会者が自分の思惑通りに話を進めようとしているのが余りにあからさまなのには鼻白んでしまう。
司会者は、自分の意見を述べる場所ではないのだという認識が不可欠なのだと思うのです。

全員が同じことを言ったりするようになるのは、どこか胡散臭く感じられてしまうのだが、そんなのばかり集めてきて識者だといわれても、現状乖離の空論にしか聞こえない。


0 件のコメント:

コメントを投稿