2015年9月4日金曜日

存在するといえば存在し、存在しないと言えば存在しないようで在るもの

気づくということは、「在る」ということの形をかえた意味を知ることだと思う。

気づいても、「そんな馬鹿な」と一笑に付して見過ごしてしまっていることに意味があるとしたら、それによって失ってしまっている機会は有りうる。

大したことでもない、今までに自分が得た表層的な知識の奥に、とてつもない大きさで存在する意味に意識を向けてみると、そこには大切なことが一杯詰まっているのではなかろうか。

 下北沢の「踏み切り地蔵」の近くで工事をしているところで見かけたガードマンに、この踏切では地蔵尊を安置してから事故が1件もないのだと話をしたところ
「そい言えば、ここからも見える次の踏み切りの遮断機のポールは、この半年でポールが30数本折られたが、ここでは1件もないのが不思議だと、仲間で話題になっているのです。」とのことであった。

何故かはわからないけれど、作って設置した先人の祈りが届いているとしか思えない。

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