2020年11月6日金曜日

四大ピアノを弾きわけられる?

 

四大ピアノを弾き比べることができると自慢しているピアニストがネット上にいた。本人は弾き比べているつもりのようだが、それぞれのピアノの特性を引き出しているとはどうしても感じられなかった。

ピアノは好きだからよく聞く。知らず知らずのうちに、楽器をみなくてもピアノのメーカーによる差は聞き取れるようになる。

弾くことはできなくても、音が聞き分けられる人は、演奏家以上に多いのではなかろうか。

それで、控え目に、楽器の特性を引き出すのは難しいのでしょうね?と質問してみたところ、「私はそれができる」との返事であった。そうは思えなかったから質問したのにである。

素人だって、沢山の演奏を聴いていれば、楽器の差は判るようになっていると思わないのだろうか?謙虚さを失うと、いくら偉そうに自慢しても、思いあがっているだけで鼻持ちならない演奏になっていても気づかなくなるのではなかろうかというのが老婆心ながらの感想である。

聴いているだけの人を、素人だと見縊って甘くみてはいけない。

まあ、これも個人的な感想であるし他を否定する気があるわけではない。こういうのも価値観の多様性というのだと思っている。

同じ曲でも演奏者によって違うし、楽器によっても音に差は出る。音楽的にどうかは別にして好きか嫌いかがあるが、それは個人の感じ方の多様性なのだと思っている。

 

ピアノは強く大きな音を出せるし、小さく幽かな音も出せる。しかもピアノは数ある楽器の中で、和音を同時に奏でることができる特性を持つ楽器でもある。

それなのに、和音のことを考えないでやみくも大きな音で演奏するのでは、いかに曲を奏でたとしても音楽性には欠ける。

その楽器を選ぶことでどのような音を紡ぎだし、演奏しようとする楽曲にどのように表現するのかということを考えないと、楽器を選ぶ意味がない。

ピアノの音階は鍵盤を間違えなければその音が出るというものでもない。鍵盤に指が触れるときの位置や角度、スピード、タッチによって音は微妙に変わるし、ペダルの果たす役割も大きい。

それらの総合によってなされるピアノでの演奏音楽には、メロディーを超えた「語り」や「歌」が伴わないと、聴く人に伝わる深みは生まれないのだと思っている。

だから、大仰に体を揺すったり体に力が入ったり、甚だしきはニワトリが首を絞められているような苦し気な表情をして演奏する姿を見ると、違和感を覚えてしまうのである。それらは大抵の場合、美しさを感じることよりも自我を見せつけようとする醜さの方が先に出ているように見えてならない。そんなことに気を取られたパフォーマンスをする暇を出すよりも、もっと音に集中してみたらどうなのかと思ってしまうのである。

倅はモーツアリテウム音楽院でレッスンを見てくれたセルゲイ・ドレンスキー教授(ブーニンのショパンコンのときの先生として有名)が、ペダルの踏み方の神髄をつきっきりで教えてくれたと懐かし気に話すことがある。よりよい音楽を伝えようとする信念を持った指導者というのは、弟子にも信頼される。

同教授は「君はもう学生弾きから脱却して、自分の音楽性を追求した方が良い。」と奨めてくれた先生でもある。

良い先生というのは見極める力と、育て甲斐のある者をその気にさせて導く力があるのだと思う。

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