学問としての歴史であれば、年代を確定する科学的分析であったり、数字であったり、資料や証拠であったり、時代背景との整合性や論理性で研究できるかも知れない。
古いものであれば、比較衡量して発表しても、当たり障りが少なくなっているものも多い。
それでもそれが事実として正しいかどうかの保証はなくて、書き換わる可能性は排除できない。
宗教やイデオロギーや謀略やプロパガンダが介在するようになってからは、表面に現れたものの真相は、そうそう簡単には解き明かせなくなってしまっている。
仮に解き明かせたとしても、広く知れ渡る前に潰される。
端的な例で考えても面妖な、20万だ30万だという数字の論理矛盾だって覆せない。
報道というものは、そもそもに思惑があるのが普通で、底に流れるいくつかの持っていきたい方向付けがあるらしく見てとれるから、一般人が多少知恵を働かせたところで、潜んでいる思惑を見破れるとは思えない。
まことしやかな謀略説とか、一見解りやすい宣伝とかに見事に乗せられるのが常であります。
新聞やTVなどが正しく事実を伝えていないことは、最近いやというほど思い知らされたばかりであります。
人や世論をコントロールするのは、社会のどの部分を抑えるのが効果的なのか?そしてそこを抑えている組織というか人が、口当たりのよい言動の裏で何を目指し何をやっているかを感じ取る感性が必要なのだと思うのです。
正義の味方のようなことを前面に押し出すもののには、とくに注意深くあらねばならない。
それは、大多数の善なる人が受け入れやすいからです。
表立って反論できない切り口から入るものは、判断が難しいことが多いが、立場をかえたいろいろの方向からみることで、ああそうかとわかることがあります。
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