2019年6月29日土曜日

蛍の光の歌を思い出して


自由であることは大事だと思うし、それに反対する気は無い。
しかし、自分勝手に振舞うことが多様性の表れだということだけで容認されてしまうのはいかがかと思う。
個々人の好き勝手な行動が許されたら社会は混乱を来すから、最小限の規制を法として定め、それを互いに守るということで互いの生活は成り立っている筈なのだが、バレなければいいのだとして無法な振る舞いをする者は多い。
人たるの意識を保って自らを律することができるのは、法による強制ばかりではなく、そういうことをやったら悲しむ人が周りにいるからだとして思いとどまる気持ちがあるからだとも思う。
思い浮かべるのは、親であったり先生であったり友人であったりする。
そういう絆を育む場というのが、何時の頃からか阻害されてきてしまっているように思う。
「仰げば尊し」というのは、先生たち自身が否定してしまったのだとさえいわれる。
曰く、そんな感謝をされるほど、生徒に対して立派ではないからだということらしいが、そうなのだろうか?
何か一つでも教えたら、お師匠様である。師匠は弟子の為によりよく薫陶せんと努力を重ねる道に就いた志の高い人たちである。それは放棄してしまったとでもいうのだろうか?
親も子供たちに先生を尊敬するようにと教えなくなったことにも原因はあろう。

政策とか方針上からとかイデオロギーからにより、教育現場からなくしてしまったものもある。
卒業式で歌われた「蛍の光」は、今は殆ど歌われなくなってしまっているという。
殊に3番4番は、我々の年代の者ですら歌った記憶がない。
良い歌詞だとおもえるのだが、これを歌わせたくなかった理由というのは一体何だったのだろう?

3番
つくしのきわみ、みちのおく、      筑紫の極み、陸の奥、
うみやまとほく、へだつとも、      海山遠く、隔つとも、
そのまごころは、へだてなく、      その眞心は、隔て無く、
ひとつにつくせ、くにのため       一つに尽くせ、國の為

4番
ちしまのおくも、おきなはも、      千島の奥も、沖繩も、
やしまのうちの、まもりなり       八洲の内の、護りなり、
いたらんくにに、いさをしく、       至らん國に、勲しく、
つとめよわがせ、つつがなく       努めよ我が背、恙無く

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