2019年9月2日月曜日

お作法が悪すぎないか


恨みを晴らすとかなんとかを思い込まされているのかも知れないが、あまりにも前近代的である。
法治国家というのは、法に基づいてのみ行う。
その昔だって、無差別に認められていたものではなく、厳しい手続きが必要であった。

敵討(かたきうち)、または仇討ち(あだうち)は、直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行うという武士階級だけに許されていた中世日本の制度である。敵討を果たした者に対して、討たれた側の関係者がさらに復讐をする重敵討は禁止されていた。
仇討ちは意趣返しとは違う。
「仇討ち」の赦免状がだされるには厳密な制限があった
公的に対処ができなくて、関係者による自力救済の側面が殺人を目的とするために、むやみやたらと仇討ちを認めるわけにはいかず、その運用にはとんでもなく厳しい制限が課せられていたのは当然である。
まず、仇討ちが認められる対象からして厳しい。
物語りで目にする道端で遭遇して敵討ちができるようなものではなく、役所に届け出て許可をもらい、場所を設けて決闘するという決まりだった。
両親や兄などの血縁の中でも目上の人物が殺された場合には仇討ちできる。しかし、妻や子供、弟や妹のためには、如何に恨みが深かろうと仇討ちは認められていなかった。
それは自分が仕える主君が殺害された場合であっても、血縁関係がないので仇討ちは認められなかった。
有名な仇討ち物語に赤穂浪士の仇討ちというのがあるが、如何に忠義が重要視されていた時代であっても違法なものとされた。
社会の秩序の保全からみても、国や地域社会などの公の部分が犯人を裁き処罰するという国家的公刑罰権の確立が近代国家の基礎である。自力救済というのが許されないことになるのは法治国としては当然であり、明治時代には仇討ち禁止令が出された。

自分が恨みだと信じ込んだものにいつまでも捉われ、仕返しをしようとすることなぞ、近代国家にとっては論外ということになる。
それが見当違いなものだとなれば尚更のことである。

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