2019年9月27日金曜日

天安門事件の真相はわからないが


反日一色で固まり日本を敵視する韓国に比べ、このところ中国が日本への歩み寄りを見せる気配があるように感じる。どこまで信じて良いか判らないが、敵視しあうより友好関係を発展させる方が良い。
中国は、戦後まもなくは反日的というよりは穏やかな対応を見せていたように感じられてならない。少なくとも、日本と戦ったことのある指導者が居る間はそうだったのではなかろうか?
日本敵視が鮮明になって来たのは、天安門事件の後のように感じる。
1989415日、胡耀邦元総書記が心筋梗塞で亡くなると、北京にある天安門広場では、学生らによって追悼集会が開かれた。
この集会は、学生たちに比較的寛容であった胡耀邦を解任した最高指導者、鄧小平への抗議活動の意味合いも含んでいた。追悼集会は徐々に形を変え、中国独裁体制を否定し、民主化への移行を求めるものになっていった。
この動きを察知した中国共産党は、戒厳令を布き、デモの鎮圧のために警察ではなく軍隊を動員して無差別に発砲し、強引に鎮圧した。
この事件は、当然世界から猛烈な批判を浴びることになったが、現在でも中国共産党は、天安門事件に関するあらゆる検閲をおこなっており、中国国内ではこの件についてインターネットで調べることすらできないタブー状態であるという。
学生のなかには中国共産党による独裁体制を打破すべしといったような強硬派もいたのだとされる。彼らが声高に独裁体制打倒を叫び、追悼集会は反体制派の集会と化し、この動きは北京だけでなく、西安や南京などにも広がっていた。
それでもここまでなら、彼らを解散させて穏便に収めることができたかもしれないのだが、「人民日報」という中国共産党の機関紙が「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」という社説を一面に掲載したことにより、学生たちの活動を「動乱」と位置づけ、共産党の指導に反するため断固として反対しなければならないという方向付けがなされた。
これに学生たちが猛反発し、ハンガーストライキといった過激な行動に出るようになり、以降、中国共産党の高官が話し合いをしようとしても、学生側は拒否した。
しびれを切らした中国共産党が武力鎮圧という実力行使に出た結果、中国共産党の公式発表によると、死者は学生や軍を合わせて319人とのことにしているけれど、一説ではそれよりもはるかに多い3000人とされています。
当時の共産党内には、共産主義を徹底しておこなう鄧が率いる長老派の存在があり、天安門事件を利用して政敵の排除を狙っていたという背景があった。
鄧はこのデモを反社会的行動とみなし、軍隊によるデモの強制解散を実行した。趙は武力弾圧に断固反対しましたが、鄧は趙の役職をすべて解任して軟禁状態にし、大虐殺が実行されたのである。
天安門事件というと民主化デモの弾圧に目が行きがちですが、中国共産党内の政権闘争という側面もあったのである。
ソ連と東ヨーロッパが崩壊した後、中国の一部の指導者は、中国ではこういうこ とは起こらないことを保障するため愛国教育の重要性を指摘した。
天安 門事件以後、指導者は中国の若者が指導者を信用しなくなるのではないかと懸念し、これを解決するため、1994 年に新しい教科書を書き始め、メディアは愛国的教育をより多く取り扱うよう誘導しはじめた。
内部の問題から目を逸らさせるための格好の材料として、江沢民がとった政策は反日だったということになったように思えてならない。

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