2019年11月20日水曜日

歴史への取り組み姿勢


歴史学というのは、歴史資料の詳細な検討の上でその歴史像を明らかにしていくものである、というのが学問の出発点である筈だが、韓国にそれは通用しない。
日本の歴史学者が彼らの主張する「正しい歴史」とやらに疑問を呈すると、歴史的証拠を提示できないことで返答に困り、「おまえたちは朝鮮を差別する意識があるから真実が見えないのだ。そんなことでは歴史をやっている意味はない。何のための、誰のための歴史か。」と言って激高し、その先の議論には進めないのだという。
完全に論点ずらしであって、学問をする姿勢であるとは言い難い。

最初から彼らに都合よく書かれた結論のある「歴史」があるのみで、その「歴史」に合わせて資料?を恣意的に出すだけであるから、それは歴史学とは程遠いものとなる
韓国人にとっての歴史とは、自分を正当化するために捏造するものに外ならない
ですから会議の場で日本側の研究者が「資料をご覧になってください」と言うと、事実を胡麻化すことのできない韓国側は苛立って立ち上がり、「韓国に対する愛情はないのかーっ!」と、怒鳴ったのだという。
さらに、ならば韓国側の「資料をみせてくれ」と言い返すと、「資料はそうだけれど」とブツブツ呟いて、再び「研究者としての良心はあるのかーっ!」と始まるのだという
研究者としての良心というのは、自分にとって都合が良いか悪いかを越えて、事実がどうであったかを究明することではないのか?
歴史の解釈に「愛」を持ち出すのは論外であろう。もしもそれが通用するなら、犯罪事件の裁判を考えたとき、証拠ではなく「愛」が争点となる異常事態を引き起こす。

教科書問題から始まろうとした合同会議だったと思うが、合意点は見いだせなかった。
大韓民国の建国時に、政権の正統性を持たせることができず、何よりも「日本の統治時代の方が良かった」と言われることを韓国建国政府が一番恐れた結果、国を纏めるのに反日を掲げたことが、そもそも誤りの始まりである。
日本側もお人好しで、韓国内で纏まるためにそれがなされるのなら、として放置してしまったことも問題である。
反日捏造教育が徹底しすぎてしまった結果、今は韓国内ばかりでなく、よりにもよって日本に対して難癖をつける動きにまで拡大してしまった。歴史の真実をもはや理解する能力はない。日韓関係の悪化は、そこに原因があるのではないのか。

「反日種族主義」という書物が韓国の学者によって出版された。
韓国民の多くは、事実がどうであったのかを資料に基ずづいて本の内容のどこがどう違うか反論することはできず、感情的に火病を起こして著者を攻撃するだけらしいが、中には、書かれていることが事実であると認識し、教わって来た歴史の矛盾点が氷解したとの感想を述べる人もいるらしい。
気づくのが遅すぎる。

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