2021年4月29日木曜日

記紀を否定したいのかも知れないが

 

未だに日本人の先祖は朝鮮からの渡来人だと思い込んでいる人が多いのだという。

しかしDNAが全く異なるのであることをどう説明するのだろう。

かの国とは歴史が違うとはいえ、民族的な価値観もあまりに違い過ぎる。

それなのに、何としてでも日本は朝鮮半島経由での渡来人が先祖で成り立っているとしたい変な歴史学者、あるいは考古学者がいて、様々な仮設を立てて彼らの思い込みを押し付けようと試みてきたが、如何に言葉上のやりくりしようとも、事実に反することから齟齬をきたしてしまい、土台無理なことなのではないのかと思えてならない。

どう考えても辻褄が合わない仮説を巧妙につなぎ合わせて、もっともらしく説いてみても、彼らが否定する記紀を彼ら自身が都合よくつまみ食いして説を組み立てているから、彼らの論理矛盾は徐々にではあっても覆されつつあるが、歴史の訂正はなかなかなされない。

思い込まされてしまったことは根深く残っているということなのか、それとも自分が思い込んでいることを他の人をも思惑通りに思い込ませて誘導したいという勢力が強いのか、何とも不思議な現象というしかない。

 

日・中に存在している歴史書や、発掘などによる考古学的発見、あるいは科学的根拠が明白に出てきても、それが進まないのはなぜなのだろう?

朝鮮に存在していた王国の人質として日本に来ていた王子たちよりも後世に、渡来人が日本を制したことなぞ、常識的に考えてもありえないのである。

倭王権と朝鮮半島の関係については、 4世紀中ごろから始まる高句蕊 ・百済 ・新羅 3国の本格的 対決に乗 じて、洛東江流域の弁辰の地に、朝鮮半島の拠点 ・任那をもったと考えられている。

即ち、日本の方が先に存在していたことになる。

韓国5000年の歴史と言い張るが、それを証明できるものはなく、日本には16000年を超える縄文時代からの歴史がある。

まず、崇神天皇65年の条の 「任那国の朝貢」、垂仁天皇 2年の 条の 「御間城天皇 (崇神天皇)の御名をとって爾摩那国と謂 う」と云う記事がある. しかし、任那の名称が、外国の史料に実際に登場するのは、414年建立の高句麗広闘士王碑文の 2 9行にみえる 「任那加羅」とあるのが初見であり、これに次ぐのが中国正史 『末書』倭国伝の元嘉 2(425)年から20(443)年の間の倭王珍の記事である

日本書紀「神功皇后紀」の記事は、三国史記「百済本紀」の記事、石上神宮蔵の七支刀錯 文など総合して推考すると、次の記事がおよそ史実を伝えているものと考えられる。

(336) 卓淳国へ斯摩宿称を遣使 斯摩宿称、百済へ爾汝移と卓淳人過古を遣使(367) 百済王 (肖古王)、久磁 らを通わして朝貢(369) 新羅へ出兵、任那諸国を平定、(371) 百済王 (肖古王)、再び久液を通わして朝貢 百済へ千熊長彦を久蟻に副えて遣使(372) 久犠 ら千舟旨長彦に従って詰り、七枝刀1口などを献上 従って、大和政権は、4世紀後半ごろから朝鮮半島南部にしばしば勢力を伸ばし、倭の五王の時代 には、任那加羅などの支配権を握 り、中国王朝にこの諸国の除正を求めたものと考えられる。

ここに記される r日本書紀』の神功紀以後の紀年は、那珂通世氏が上古年代考で、近肖古王以 6人の王の崩年を日本書紀と朝鮮の史料東国通艦 (1485年完成)とを対比 し、干支を二道 (120)下げることによって一致することを明らかにしたものである。 また、日本書紀の任那日本府関係の記事には、 「百済本紀」などを引用、継体天皇 (509)年の条に 「久羅麻致支弥が日本から来て、任那の日本の県邑に在る。」 欽明天皇 (541)年の条以下の任那復興会議の記事に、 「任那日本府に会いて相盟いき」などが ある。 日本府の名称は、任那に置かれた大和政権の支配組織、あるいは出先機関と考えられがちであるが、 研究の進展によって、 次第にその実態が解明されつつある。日本府の 「府」は、朝鮮語の訓が 「街」 と同じであり、 「在京 ・在外の大邑」とほぼ同じ意味であると云われている。

江上波夫氏は、従来の任那に関する所論を批判し、考古学 ・神話学 ・民族学 ・東アジア史の立場を 総合 して騎馬民族征服王朝説を提唱した。この説は、江上政夫氏が昭和23(1948) 5月に民族学の 岡正雄氏 ・考古学の八幡一郎氏 ・文化人琉学の石田英一郎氏 らと 「日本民族-文化の源流と日本国家 の形成」というテーマでシンポジュームをもった折に発表したものである. その所説は、 4世紀後半の考古学的事実を前提に、 5世紀になっても国土統一途上にあった大和朝 廷には、4世紀に朝鮮半島へ出兵するはどの勢力は存在 し得ない。後期古墳文化にみられる北方系騎 馬民族文化の様相は、部分的 ・選択的なものではなく、騎馬を常習とする民族が、馬をともなって日 本に入ってきたものと思われる。すなわち、日本国家の起源は、東北アジアの騎馬民族による征服に あったというものである。 このシンポジュームの記録は、翌年民族学研究」第13巻第 2号に集録され、江上氏はその後改訂 増補 して日本民族の起源を刊行し、さらに、昭和42(1967)年に自説を補強して騎馬民族国家 を発表し、所論の概要を序文の中で、 「農耕民族の歴史的頬型は、弥生時代から古墳時代前期の日本にきわめてよく即応するが、古墳時 代後期 (応神朝以後の大化前代)には、本質的に合致 しない。一方後者は、騎馬民族の歴史的類型とくに征服王朝のそれにすこぶるよく照合することを知ったのである。その比較研究の結果は、古代 日本の歴史は騎馬民族型、とくに征服王朝型を示したのである。」と説明している。

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