どのような世界にも、その道を極めようとするなら基本というものがある。
長い歴史の中で、先人たちが修行の過程で身につけてきたものの集大成であり、後進がそれを辿ることで過たず成果を上げて行くための糧になる。
志した道が、あくまで自分の為に極めようとするのであって、他人には一切関係がないとするならば、変人扱いされようとされまいと好きなようにすればよいが、少しでも他人の為に役立つものであろうとするならば、初心を忘れてはならないのだと思う。
例えば料理の道であったとする。
人様に美味しいものを食べさせたいとしてその道に入ったのに、何時の間にやら勘違いして「この味が解らない奴は客になってくれなくとも良い。」と平気で言うようになる職人がいる。
その味を出せるようになるまでに、数多の努力があったことは確かでも、味は個人の好みもあるから、料理人が期待するような反応が得られないことだってある。
そんなとき、まだまだ修行が足りないと謙虚さを保ち続けることができるかどうか・・・
例えば楽器の演奏であったとする。
難曲といわれるものをミスタッチすることなく弾きこなす技量を持っていても、その演奏を聴いた人が感動するかどうかは別である。
聴き手が素人だからというのは当たらない。素人中の素人である子供は、それがどんなに有名な演奏家であるかなどということはしらなくても、聴いてよかったかどうかは会場から出てきたときの顔の輝きに表れる。
「どうだ、凄いテクニックだろう。」と業前をひけらかしたところで、そんなものに左右されない。魂が揺さぶられるような音楽であったかどうかである。
他人と音楽の感動を共有したいと志した気持ちを持ち続けているかどうかということであろう。
良いお師匠さんに恵まれることも大事なことになる。そういうお師匠さんは得てして厳しい。
「こんな初歩の段階のことがきちんとできないでどうする。まだまだこの先に身に着けなければならないことが山ほどあるのだ。」という想いが強いからでもある。
一定のレベルに達しないと、いわれていることが理解できないが、それが自分の事として理解できるようになると、謙虚に極める先のことに意識がむくようになる。
それをしないで、顔つきや身振り等のパフォーマンスに行ってしまう人というのは多い。
良いものというものに共通して言えることは、それが苦もなく簡単にできてしまっているように周りには見える。決して難しそうには見えない。
域に達して簡略化されたものは、美しいということであると思う。
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