戦争は避けたいと思うのは、誰でも同じだと思う。
そのやりかたが違うのは、ひとそれぞれの考え方があっても不思議ではない。
要は、どれが現実に即しているかということになる。
普通に考えて、殴っても殴り返すことができない相手と、普段自分から手を出すことはしないけれど、殴ったら自分も手ひどく反撃されるであろうと解っている相手とを比べたとき、どちらが平穏でいられるかは明らかである。
備えをすることが右翼で、聞く耳持たない相手と話し合いでなんとかなると思っているのが平和主義者だとしたら、その区分けの仕方はおかしい。
話し合いで何とかなると公言している人たちが、尖閣を犯す気まんまんの相手と話し合いをしたということはあるまい。
相手のあることは、自分が思っていることとは違っていて当たり前なのが常識ではないのか。
如何にして危険を避けるかということについては、「何でも反対」というのではなく、対案を提示して議論を尽くす姿勢を見せるべきであろう。
ベトナムで漁船がC国の公船に体当たりされて沈没し、乗組員を救助しようとするのさえ妨害されたという事件があったという。こんな相手とどう話し合うというのか?
手を出しにくくしておくのは自衛上大事なことである。
選挙を終え、憲法改正が話題にあがってくるのだと思うが、憲法改正即ち戦争とレッテルを貼り、短絡的感情的に叫んだり煽ったりして議論からも遠ざけようとするのではなく、対案を提示してよりよいものへとすり合わせていく努力をつくさないのでは、何のために選ばれて議員になったのかわからない。
簡単に改正とまではいかないに決まっているが、触れてはならないものというのでは偏狭に過ぎると思う。決めるのは国民なのだから、議論はした方が良い。
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