2019年2月17日日曜日

建国日を変えたい?


大韓民国の動きがいまだに怪しいのは、そもそも建国の歴史事実を捏造しているところに原因があるのではなかろうか?
もし、韓国が日本との間で独立戦争をしてそれを勝ち取ったというなら、独立日は1945年8月15日でなくてはならない。
しかるに、韓国が独立(建国)した日は、1948年813日であり、終戦から3年も経ってからのことであった。紛れもない歴史事実である。
この日、首都・ソウルで 韓国樹立の宣布式が挙行されているのである。
そもそも、韓国軍がいったいいつ日本と戦ったというのか?もし韓国軍が日本軍と戦ったとしたら、日本軍は韓国軍を完膚なきまでに壊滅させたはずである。韓国軍などというのは、終戦後にできたのであるから、そんなことは起こりえない。そんなことも韓国人は理解できていない。
捏造教育というのは愚かさを助長する。

ヤルタ会談での密約があり、朝鮮半島はソ連とアメリカで分割されることになっていた。
曲がりなりにも日本と戦った実績のある金日成を傀儡政権とする北朝鮮が、ロシア・中国の後押しにより北で建国を宣言した。
朝鮮は日本領であると認識していたアメリカが朝鮮半島に占領軍として進駐していたところに李承晩は泣きつき、独立を果たそうとしたがなかなか認めてもらえず、その間に李承晩がやったことといえば、政敵は粛清するは自国民を大量に殺戮するはと、信じられないくらいの悪逆を尽くしたのであった。
北朝鮮が共産党国であることを嫌った米国が、その対抗上韓国の独立を認めるしかなかったというに過ぎない。要するに棚ボタ式独立であったから、建国時の政権に正統性がなかった。

韓国が独立できたのは、アメリカ人が戦ってくれたことと、旧日本軍で訓練を受けた兵が勇敢に北朝鮮と戦ったからであって、李承晩をはじめとする韓国兵は逃げ惑うだけであった。
日本にそれらの経緯が資料として残っていることは容易に理解できるから、ばれるとしたら日本からに決まっているとして、それが何としても表沙汰にならないよう、韓国は日本に圧力をかけ続けるしかなかった。それを今に至るも引きずったままなのである。

反日的日本人教師が教育現場に多かった時代は何とかなっていたが、彼らは徐々に駆逐されていった。それはそうだろう。嘘から出ているプロパガンダが長続きするわけがない。
歴史の事実は、隠そうとしても隠しおおせるものではない。韓国内でそれができたとしても、米国その他の国に、証拠資料は山ほど残っているのである。気の毒とは思うが、どう取り繕おうとしても惨めな建国歴史なのである。

韓国政府はこれを胡麻化すために、必死になって捏造教育を国民に施し続けてきたのであるから、いたるところに齟齬がでてくるのは不思議ない。
自分たちが騒ぎ立てすぎて、それらを掘り起こされ自らの墓穴を掘ってしまった。
苦し紛れに建国についてカイロ宣言などを持ち出したりもしているようだが、その時点で領土も国民も正当な政権もなかったのに、国として世界から認められた筈はあるまい。

そもそもカイロ宣言そのものの有効性すら否定されているのである。ロシアは、その会議に出席していなかった。

ウィキペディアによると、
カイロ宣言は、第二次世界大戦中の1943年に開かれたカイロ会談を経て示された宣言。軍事行動を前提とした連合国の対日方針などが定められた。
「カイロ宣言」は日時や署名がなく、公文書も存在しておらず宣言として扱うことが適切かについては議論もある。
出席者であったイギリスのチャーチルさえ、後に否定しているとも言われている。

対日方針を協議するため1943(昭和18)年1122日からエジプトのカイロで開催されたフランクリン・ルーズベルト米大統領、ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石国民政府主席による首脳会談を受けて、121日に発表された「カイロ宣言」。
蒋介石は会談で、ルーズベルトの問いに答え、天皇制の存廃に関しては日本国民自身の決定に委ねるべきだと論じた。米国が起草した宣言案を英国が修正し、日本の降伏と、満州・台湾・澎湖諸島の中華民国への返還、朝鮮の自由と独立などに言及した宣言が出された。カイロ宣言の対日方針は、その後連合国の基本方針となり、ポツダム宣言に継承された。
ルーズベルトの狙いは、抗日戦を断念して連合国の戦線から脱落する恐れがあった中華民国を米英ソの三巨頭に加えて祭り上げ、台湾の割譲や常任理事国入りさせて激励させて士気を高めさせることだったと言われている。呂秀連元副総統も「カイロ会議は当時のルーズベルト大統領が中華民国と日本が単独講和をし、蒋介石・元総統が講和を安易に受け入れるのを避け、満州・台湾・澎湖島等を中華民国に返還させるためのもの」と述べた。
ただしルーズベルトは中国戦線の実態を認識していなかった。中華民国は開戦以来から対日戦に劣勢であり、中国共産党軍との連携にも消極的で、国共内戦すら再発しかねなかった。しかも1942年に日本軍がビルマの援蒋ルートを遮断しため、装備・物資がヒマラヤ越えでしか供給されなくなった。
ルーズベルトはカイロ会談後の126日、中華民国へ派遣されている外交官やジョセフ・スティルウェルから、次日本軍に攻勢されれば国民党政府が倒壊すると冷水を浴びせられた。スティルウェルは中華民国からアメリカ軍が日本本土を空襲計画することにも反対した。日本軍の内陸部侵攻を招くためだった。大日本帝国陸軍はカイロ宣言の翌年、大陸打通作戦を成功。中華民国軍の対日戦線をほぼ崩壊させた。
そこでアメリカは、中国大陸を反攻拠点とする当初計画を変更。マリアナ・フィリピン経由で日本を攻略することにした。カイロ宣言は戦術的誤算があったことになる。蒋介石はカイロ会談後、連合国の重要会議であるテヘラン会談、ヤルタ会談、とポツダム会談に招かれなくなった。蒋介石は1944年には裏で繆斌を通じた対日和平工作を行った。
20083月、当時の中華民国総統陳水扁は、インタビューの中で中華人民共和国がカイロ宣言を根拠に台湾の領有を主張していることに対して、同宣言は
·         時間と日付が記されていない
·         3首脳のいずれも署名がなく、事後による追認もなく、授権もない
·         そもそもコミュニケではなく、プレスリリース、声明書に過ぎないと発言している。
陳は、イギリス首相ウィンストン・チャーチル19552月1の議会答弁で、「『カイロ宣言』に基づいて中国が台湾に対する主権を有するということには同意できない」と述べていることを挙げ、「3人(ルーズベルト、チャーチル、蒋)にはそもそもコンセンサスなどなく、そのため署名もなかったのだということが見てとれる」と述べている。
それはひとえに韓国が独立戦争で勝ち取った国でないという韓国人自らの「脛(すね)の大傷」にある。米軍進駐により棚ぼた式に独立を得た韓国には、そもそも国家の正当性というものがないのである。
その正当性をひねり出し、脛の傷に絆創膏を貼る必要があった。韓国の歴史認識という「正しさ」の捏造(ねつぞう)である。韓国のいわゆる民族主義観は次の4点から成る。
 (1)高度な文明国だった朝鮮が野蛮人とみなされていた日本人に侵略され侮辱された(2)朝鮮統治における「改善」は、朝鮮人を効率的に搾取し支配し同化するため日本が朝鮮近代化を必要としたにすぎない(3)統治時代、朝鮮人民による解放闘争が継続的に行われた(4)日本人が朝鮮人に対する非人道的方策を推し進め一方的かつ高圧的に臨んだため、抵抗運動は活発化し同化政策は失敗した-である。
まず、李氏朝鮮に高度な文明などなかった。李朝五百年は中国から学んだ朱子学の儒礼の実践、消化に費やされ、経世済民を思わぬ李朝政権により朝鮮は貧窮に閉ざされていた。
凡そ1200年前に、弘法大師空海は、儒教が処世術の学問であると喝破しているその儒教をこねくり回すことだけに明け暮れていた国ではないか。というよりも国ともよべない国だった。
宇宙真理を具現化するのは仏教であるとして大師はそれを広めたから、日本は文化が発展したが、朝鮮では仏教を稀釈してしまったからそれがない。仏教が花開いたのは日本においてである。
現在の日本人がその真理を理解しているとは思わないが、意識しなくとも日常の行動にたくまずして自然に顕しているのが日本人なのである。

日韓の保護条約は高宗王が大臣5人に丸投げして生まれた。「そちたち良きにはからえ」と王が言った史料が3カ所から出ている。よって日韓併合は不法ではない手続きを踏んでなされたのである。不法なら時の列強国がそれを盾にたちまち襲いかかったことだろう。どちらかと言えば、面倒な朝鮮の面倒を見てやってくれと世界諸国から頼まれた上での併合であった。

極貧の朝鮮には、収奪するものがそもそもなかった。インカ帝国のように金でも採れれば収奪しようもあったろうが何もなかったので、他の植民地支配のように過酷にはなり得なかった。
労働の尊さを知らない彼らにその価値や意義から教えなければならなかったことが日本による「改善」の第一歩であった。
国民の殆どが奴婢(奴隷)階級であったのをまず解放した。
以降、日本から膨大な資本を注入して朝鮮の近代化を図ったというのが歴史事実なのである。
感謝されこそすれ、恨まれる筋合いなぞない。

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