2019年7月9日火曜日

思惑はすぐに見破られる


社会主義国というのは、限りなく平等を目指すものだと思っていた。
若いころにはマルクス主義にかぶれた若者が多かったが、暴力革命を目指す手法が嫌われたということばかりでなく、言っているほど優れた社会システムにはならないし、彼らの言動が常識の域を逸脱していることも露わになってきて、いつの間にかそれを信奉する機運は下火になった。
現に、共産主義国が成功したという例はあるまい。住みたいと憧れる国はない。
中国は、出遅れていたことで賃金が安いとして世界の工場が進出し、結果として経済は発展したかも知れないが、貧富の格差はベラボウであり、信教の自由はないし、表現の自由は勿論ないということが世界の評価である。
これのどこが社会主義だと言えるというのか。
GDPが増えた結果は軍事力の増強であり、世界の緊張感を増した。
一帯一路計画とやらも、昔のイギリスの東インド会社の逆バージョンだと見透かされてしまっている。

新聞やテレビなどをメディアと一括りにして呼ぶが、メディアとはそもそもが中間にあるもの・、間に取り入って媒介するものという意味である。
紙面や時間の制限があるから、取材したことをそのまま伝えるということはまずない。切り取っただけのことが報道されるから、真実がどうなのかという全体像は掴みにくい。
日本の新聞は、リベラルを標榜してきたと思うが、報道の舞台を作ったのはよいとしても、演出が多すぎた。
一定の方向にリードしようとする思惑が強すぎて、偏向を指摘されることが増えた。
例えば米国に関する報道に端的に表れる。
多様な意見を自由に発言できる国であるから、トランプ大統領を批判しようと考えたら、彼に反対の考えを持つ人や反対運動の場面を切り取って来て報道すれば、簡単にイメージ操作はできてしまう。
肩入れしたい政党を持ち上げたり、反対する政党をくさしたりは、巧妙に操作できる。選挙戦ともなれば、それは多大な影響力を持つ。
日本国内の報道だって、その手法を使えばどんな演出だってできてしまう。
事実を報道するだけなら良いが、そうばかりではないことが次々にばれるようになった。
余りにも偏った思惑が垣間見える記事を書いていると、国民からの信頼を失うばかりでなく、贔屓の引き倒しの効果しか生むまい。

つい最近では、安倍総理のイラン訪問直後のタンカー攻撃関連報道で、Aテレビが意図的かどうか知らないが誤訳をもとに安倍総理を非難するようなニュースを読み上げたが、たちまちのうちに誤訳報道であると指摘されてしまった。
韓国へのホワイト国除外も、大多数の日本人が賛成していることを見誤ると、本来の役割からも逸脱しかねない。
新聞やテレビだけではない媒体によって、国民は真実に触れることができるようになってきているから、欺こうとしてもそれは不可能なのである。

報道の自由は尊重されるべきであるが、事実を捻じ曲げるようなことがあってはなるまい。
合わせて、報道しない自由という事で伏せてしまっていることに重要なニュースがありそうだが、
隠そうとしても隠しおおせるわけにはいかない時代となっていることにも、マスコミは気づかなくてはなるまい。
近隣諸国の、マスコミとしては知られたくない不都合なニュースであっても、報道した方がよい。それでこそ公平が保てるのではないのか。隠していてもすぐバレルから、信用を失うだけである。

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