2019年7月31日水曜日

未来志向は無理


朝鮮人が未だに恨みに思っている日本人の一人が豊臣秀吉である。
それより以前に蒙古襲来を煽って、その先兵を勤めたのが朝鮮だったことは棚に上げている。

日本の天下統一を果たした秀吉は、大明帝国の征服を目指し、諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。
日本が平定されてしまった結果、武士への恩賞として与える領国がなくなったので、それを外国に求めたのだと、昔の学校授業では教わったし、今もそう思っている人は多い。
しかし、それはどうも違うらしい。スペインやポルトガルが東洋に進出してきて、うかうかしていられない。それに対して明国は全く当てにならない、という国際情勢を見極めてのことだったようである。
そのためには中国を抑えなくてはならないと秀吉は判断したのだと考えられるのだという。
秀吉は、そのための通過道として明の属国である李氏朝鮮に日本への服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。小西行長が西ルートで、加藤清正が東ルートで釜山に上陸後一気に進撃した。
朝鮮国王宣祖は戦いもせず真っ先に逃げたから、首都は瞬く間に陥落した。逃げまわる朝鮮王を追い、その背後を突こうとして、加藤清正はウラジオストックまで侵攻したとされる。
朝鮮王は民を捨てて逃げ惑うばかりで、明に亡命する寸前まで追い詰められた。
明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むべく出兵を決断した。以後、戦線は膠着したが、秀吉の死をもって終息した。
日本軍が苦しんだのは食糧の確保だけであった。朝鮮は土地が痩せていて食料の補給ができなかったからである。攻め入ってみて朝鮮の実情を理解した日本の武士団は、朝鮮の地に魅力を全く感じなかった。
もしも魅力を感じていたならば、占領地を残した筈である。全く同様に明も朝鮮の土地に魅力を感じていなかったから占領することなく属国にしたまま放置したのであろう。

その後も朝鮮は発展することなく過ごしたのであるが、彼らが好きな事大主義をとりたいのなら、相手は中国ではなく日本でなくてはならなかった。
江戸時代に朝鮮通信使などを使って、日本に中途半端な朝貢をしていた。
日本では明治維新を成し遂げて近代化を図っている時代になっても、朝鮮は相変わらず判断力が欠如して夜郎自大(自分の力量を知らずにいばること)の気風だけが育ち、さしも温厚な福沢諭吉も脱亜論を唱えるに至った。哀れというも愚かである。
やむを得なかったとはいえ、韓国を併合してしまったことによる負の遺産は未だに後を引いている。

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