2019年10月9日水曜日

多数意見ではなさそうなもので


自由主義国では、自分の意見を主張したことについて咎め立てされることは基本的に無い。
それは、選挙によって正当に選出され成立した政権の批判をしても、某国のように逮捕されたり拘束されることもない。
表現の自由だということらしい。
しかし、何を言っても自由だが自分が公言したことに責任をもつかどうかというと、それは別問題である。
多様性なることを理由にして、時には反社会的なことも言い放つが、結果について責任を取ったということはまず聞いたことがない。

かつて地上の楽園だとして言い囃し、帰還運動を喧伝推進したことで将来の選択を惑わせる言動をとった自称知識人と呼ばれる人が少なからずいたが、彼らが反省したということを聞いたことが無いし、共産主義国の核は綺麗な核で自由主義国の核は汚い核だと主張していた人たちも、その主張を訂正したことはない。
言いっ放しで居ることを恬として恥じることはない。

勝手なことを言うのを放言というが、世間の顰蹙を買うことさえ厭わなければ、身に危険が及ぶことはまずないから何を言っても平気だと思うのか、それを人前で売りにしている人も居るようにさえ見えて仕方ない。
考えてもみてほしい。一般人だって、自分が口にしたことには責任を持つのにである。

百人いれば百様の意見が有っても不思議はないが、民主主義国家では多数意見に従うことで折り合いをつけて社会のバランスをとる。
そんな中にあっても、自分の主張のみに固執して他の考え方を全く受け入れようとはせず、批判ばかりに終始する人が罷り通っている。
が、百歩譲ってそれはそれで勝手だと理解できなくもないけれど、少数意見だとの認識はまるでないままに、さもさも大多数の意見を代表する正義の味方面をするのだけは止めて欲しい。

批判ばかりするので「それではどうすれば良いのか?」と問われると「ジャーナリストは批判するのが仕事であって、代案を考えるのとは違う立場だ。」と言って胡麻化すのが常である。
これを無責任と言わずして何と言えるか。
野党も同様である。
政策に反対することについては、事細かにあげつらって、およそ起こりそうもないことまで理由に持ち出して審議を長引かせることが多い。
代案を提示することはまず無いし、極論を言えば代案を作成することすらできなくて、反対の為の反対をしているようにさえ映る。
それでも、議論の場に出て反対意見を述べるだけまだましである。
重要課題であっても議題として取り上げることすら拒むことがあるのでは何ともならない。
問答無用というのでは、いかなるものごとも進展しない。
言論の自由とは、論理的に他を納得させ得る意見を以ってこそ主張できるのではないのか?

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