2020年6月18日木曜日

刷り込まれたままの歴史から脱却


日本は悪い悪いと言われて育ったら、まともな国民が住む社会になるわけがない。
そういわれ続けてきたことで歪められ、発展が阻害されたことでの国益の損失と、何よりも誇りを持てなくなった若者が増えたことを、そろそろ見直さなければなるまい。

表現が適当でないことは承知だが、「盗人にも三分の理」とか「一寸の虫も五分の魂」という言葉がある。
なにごとであれ、それをしたことには必ず理由があるのだということを無視したままで検証はできない。
なにも今更過去を掘り返して正当化しようというのでも、歴史を修正しようというのでもない。

終戦後には食糧難を乗り越えられたのを始め、復旧にひとかたならぬ援助をして頂いた恩義を忘れるわけにもいかないが、良いも悪いも含め事実がどうであったかくらいは、そろそろ知った方が良いのではないかと思うのである。理由というのは必ずあるからである。

1919年に日本は国連で人種差別撤廃を唱え、多数国の賛同を得たが、議長国であった米国が、このような問題は全会一致でなければならないとごり押しして廃案となった。植民地を持つ白人国が危機感を覚え、黄化論が起こるきっかけになったりしたが、日本はもうそんな昔から、奴隷制度まで残す植民地支配をしている白人諸国からのアジア諸国の独立も掲げていたのである。

終戦間際になってから、敗色の濃い日本に対し、不可侵条約を一方的に破って背後から襲い掛かった破廉恥行為をしたにも拘わらず、終戦後に日本の分割統治を主張したような国も相手だったのである。
その国は、日本将兵を捕虜として長期間抑留し、シベリアで強制労働に従事させもした。

国際裁判などというのをして、法治国ではあるまじきものとされる事後法による茶番劇で日本側のみを裁いてA級戦犯なるものを創り上げたが、戦勝国側の毛沢東やスターリンの犯した非人道的行為が裁かれはしなかった。
戦勝国側が敗戦国の指導者を死刑にしたいというなら、それで一貫すれば済むこと。忸怩たる思いを覆い隠すために押し付けたものが、その後の日本を長きにわたって苦しめている。
日本人の尊厳を根底から破壊できるほどの正義が彼らにあったとでもいうのか?
紛争を解決するための最後の政治的手段が戦争であるというのが当時の世界常識だったのであるから、勝った負けたで決着できたはずである。

パリ不戦条約というのがあった。第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段として、締約国相互での戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定したものであるが、条約批准に際し、米国は、自衛戦争は禁止されていないとの解釈を打ち出した。さらには英国と米国は、国境の外であっても、自国の利益にかかわることで軍事力を行使しても、それは侵略ではないとの留保を行った。随分都合の良い言い分である。
しかし、経済封鎖は戦争行為そのものであるとの解釈もされていた。
だとすれば、ABCDラインによる日本への経済封鎖は、宣戦布告に等しいものだと言える。
フランクリン・ルーズベルト大統領は、何としても日本と戦争したかった。

戦争が悲惨なものであり、戦っても勝てるかどうかさえ判らない不安を抱えながら、敢えて戦争に踏み込むには、それを為すための旗印が必要であった。大義として掲げて戦うだけの理由がなくて国を挙げての戦争はできない。見境もなくそれに走るほど日本人が愚かであったとはとても思えない。
戦争に至る理由としたものを日本人が知ることを、どうしても封じ込めたかった強い勢力があったから、日本人はそれを知ることなく過ごしてきたのだと思う。
情けないことに、それに加担した日本人が沢山いた。彼らは日本人の美徳や誇りや文化を否定し、今もそれを引き継いでいる勢力が根強く残っている。

戦後に我々が教えられたことは、野蛮な日本軍が東南アジア諸国に侵略して悪事の限りを尽くしたのであるから、日本人は深く反省しなければならないという一点だけであった。
どう考えたって、日本人がそんな民族性の国であった筈がない。
しかも、その教育は、植民地支配時になした白人国側の悪行の数々まで、日本によるものだとして擦り付けるという悪辣ぶりであった。どちらの方が残虐行為を沢山したのかは、明白な事実として残っているのではないのか?
だから、何故に日本が国家の存亡を懸けてまでそうしたかを知られることや、それに至る理由に触れることはタブーであった。
今だって、その理由を知らない人が殆どであろう。

日本を悪者と決めつけ、一方的に押さえ込むための先兵として使われたのは左翼思想に固まった日本人たちであったことは想像に難くないし、以後、その流れは今に至るも脈々として引き継がれていることにやりきれなさを覚える。
日本人が、掲げた正義と大義がどんなものであったのかに気づかれてしまうのは、人道を名目的に建前とする彼らにとっては、何としても防がねばならないのであろう。そういう意味では、思惑通りに上手くしてやったと言える。

日本はアジア諸国に侵略したというが、日本軍が戦った相手は植民地支配をしていた白人国軍と、その植民地支配に加担していた華僑であって、現地民と戦ったわけではない。なぜなら、彼らは武器を持たされていなかったからである。
戦後、植民地支配をしていた国々は、再度それを復活させようと目論んだが、ついにそれは果たせなかった。それはなぜなのかと考えてみるだけで、いろいろ解ってくる。
事実というのは、良いも悪いも隠しおおせるものではない。

東南アジア諸国が日本を恨んでいるからという謳い文句は、日本人を押さえ込むのに有効であったが、近年になると流石に左翼的マスコミ或いはジャーナリストも使えなくなったのは、恨みを持って反日的なのは、特亜3国のみであるということが日本国民に判ってきてしまったからであろう。
それでもまだこじつけ理論で頑張っている者もいるが、相手にされなくなってきている。
捏造或いは歪曲したことを根拠として主張するのでは、整合性がなくなるからである。
我々は、民族としての誇りを、そろそろ取り戻しても良いのではなかろうか。

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