2021年6月2日水曜日

全体像をつかんでみる努力が必要となった

 

報道において「切り取り」自体は避けられないということは解らなくはない。

そもそも報道とは、日々起きている膨大で雑多な出来事の中から、ほんの一部を切り出すことで簡潔に伝える営みという側面があるからであるが、切り取り報道が余りに多すぎないか?

「何が重要か」については、人によって意見が異なって当然とはいえ、メディアが重要だと判断したことに思惑や悪意が含まれていないとは思えないことがあれば、それが許されるとは思えない。ミスリードされてしまう側は情報弱者なのである。

フェアだとは言い難い切り取りが横行しているのも事実ではなかろうか。

別段彼を擁護する心算はないが、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が女性蔑視発言をしたということで袋叩きに会い、会長を辞任したのもそうである。発言の全文を読めば、決して女性を蔑視しているとは思えない。

最近の例では、嘉悦大学教授で菅内閣の内閣官房参与を務める高橋洋一氏のTwitterでの発言に批判が集まった。

ジョン・ホプキンス大学の新型コロナウイルスに関するデータを引用した上で「日本はこの程度の『さざ波』と言ってしまったことを咎められた。

「さざ波って何言ってるの?大勢の人が亡くなっているのに」「今の大阪の状況を見てよくさざ波と表現できるな」「耳を疑う」など批判が寄せられ、彼は官房参与を辞任した。

こちらも庇う気はないが、彼の持ち味は統計データの作成とその分析力だったのではないのか。

使った言葉が品性を欠き適切でなかったことはその通りであろうが、読者を感情的に煽り、彼を退場に持ち込みたかったのではないのかという見方もできる。

大手マスコミの手法は文化大革命のやりかたを彷彿させて、危険な流れがあるように思えてならない。

報道の狙いが奈辺にあるのかということを見定めないと、世欄が繰られてしまうことだってありうる。

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