説明をしてくれないから解からないと安易に口にして恥じとも思わない人が増えたのではないか?
説明したところで、自分に好ましいものでないと、それを受け入れることもしないのに。
自助努力というのをまるで悪いことのように否定し、至れり尽くせりのお膳立てをしなければならないとする風潮の行きつく先はどこなのか?
天は自ら助くる者を助く、というのは真理であると思う。
先ず自分が率先して努力し、それでも叶わないことは社会が補助するというのが筋ではないのか。
楽をしたいのと責任の放棄は別問題である。
楽な道を選ばせようとする意見の裏には思惑があるのだと考えないと、健全な社会は実現しがたい。
映画産業が斜陽化していたころ、それを復活させたのが東映の仁侠映画だったという。
観客の多くはブルーカラー族であったというが、意外なことにデモに出かける前の全学連の生徒も多くを占めていたという。
映画の主人公は寡黙で多くを語らない高倉健であったが、圧倒的迫力で観客を魅了した。
背なで泣いてる唐獅子牡丹というのが通じたのだと思う。決してヤクザを肯定したのではない。
多くを語っていた全学連の活動は、ほどなく衰退の道を辿った。
多言を弄さずとも通じ合える、迫力ある自分を育て上げることが必要なのだと思う。
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