2021年9月26日日曜日

日本人が知らないままでいること

 

オリンピックの開催については反対者が過半数であるというようなマスコミ報道がなされたが、そんなことはあるまい。

もしそうであれば、招致することなぞ最初からできなかった。

国際的な約束であるから、コロナ禍などの問題は多かったが、基本的には実施せざるをえなかったのではないかと思っている。

もしも辞退するということになったときに浴びる国際的批判は、国内で騒がれていたオリンピック反対論程度では済まなかったと思う。

いろいろ言う人はいるが、ゼロリスクを要求されても、それは誰がやっても無理だ。

なんだかんだ言っても、日本だから開催に漕ぎ着けられたと思っている。

オリンピックは問題が多いから廃止しようなどという提案が通用する状況ではなかった。

 

エンブレムの決定のころから、不明朗な問題が取り沙汰され、口害から会長が変わるなどして、オープニングの演目なども批判が多かった。それはそうだろう。人は100人いれば百様の注文を付ける。誰もが納得するようなものはできない。

日本を批判する報道は、日本国内と韓国の報道に多かったのではなかろうか。

韓国の報道内容は常軌を逸するほどであったと世界各国からの顰蹙をかっているが、日本ではそれに触れられることはない。

せめて、オリンピック開催に関して譲れないものはなんなのか、ということを最初から詰めておけばよかったとは思うが、全員が合意するということもなかったであろう。

 

企画に関わる人たちの人選には注意深くあらねばならなかったことは確かである。人種問題に関わることは、過去の問題として大目に見られることはない。必ずのように見つけ出してきて大騒ぎになる。

しかし、歴史的にみて人種差別撤廃を国際的な場で最初に主張したのは日本である。

国際連盟ができた頃にそれをしたことで、当時の世界の実情に合わず、日本は西欧列強により目の敵とされる遠因となった。

日本は宣伝下手である。普段から日本のやった優れたことを発信して理解を深めておかないから、悪者にされやすい。

例えば、樋口中将はハルビン特務機関長だった昭和13(1938)年、ナチスの迫害を逃れソ連を通過してソ連・満州国境に逃れながら立ち往生していたユダヤ難民を満州国に受け入れて脱出ルートを開き、それにより救出した人数は2万人とされている。

ドイツと防共協定を結び、反対が根強い中、樋口中将は捨て身でユダヤ人難民を救出し、上司だった関東軍の東条英機参謀長もこれを不問に付した。樋口中将は、ユダヤ民族に貢献した人を記したエルサレムの「ゴールデンブック」に掲載されたが、軍人という理由から、杉原のようにホロコースト(大虐殺)の犠牲者を追悼するためのイスラエルの国立記念館「ヤド・ヴァシェム」から『諸国民の中の正義の人』(英雄)に列せられなかったが、彼らがそれを忘れているわけではない。

ルトワック氏は、「樋口は混乱して予測不能の困難な時代に率先して勇気ある大胆な行動を取った。彼に助けられ、戦後、大使や科学者になった者も少なくない。しかし、ヤド・ヴァシェムから英雄に処されていない。いつ、どこにも良い軍人はいた。樋口は広く顕彰されるべきだ」と話している。軍人だったから顕彰されないというのでは公正さを欠く。

 

この2年後の40年、リトアニアのカウナスで杉原千畝領事代理が命のビザを発効しユダヤ人を救った。

ソ連でも帝政ロシア時代から、ナチス・ドイツに勝るとも劣らず、反ユダヤ思想が強かった。ハルビンでは、ユダヤ人と白系ロシア人が互いに反目し合い、頻繁に抗争が起こっていた。こうした事情を熟知していた杉原は、カウナスでは「狭義にはむしろ『スターリンの脅威から守った』」(『諜報の天才 杉原千畝』)と評価。ポーランド陸軍の情報士官を使った杉原はインテリジェンスの天才だったと主張する。樋口中将も、人道主義とソ連諜報目的からユダヤ人を救済したとすれば、対露情報士官としての面目躍如だろう。

 

日独防共協定を結んでいたドイツはユダヤ人救済に抗議したが、上司だった関東軍の東条英機参謀長は、「当然なる人道上の配慮によって行った」と一蹴した。東条は「ヒトラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることは正しいと思われますか」と主張した樋口を不問に付し、日本政府は、軍事同盟を結んだナチスの人種思想に同調しなかった。東条英機も悪人としての評価しか残っていない。

 

この樋口中将は45年の終戦時、北の守りを固める第5方面軍司令官として、千島列島のシュムシュ島(占守島)や樺太での旧ソ連軍との自衛戦闘を指揮し、「ソ連の北海道への侵攻を阻止した」との再評価が進み、北海道の石狩に記念館が開設された。

ソ連のスターリン首相は、日本が降伏文書に署名する前にヤルタで密約した樺太と千島列島、さらに北海道まで占領し既成事実にするつもりだった。実際、同16日、トルーマン米大統領に留萌―釧路以北の北海道占領を要求。拒否されるが、南樺太の第八十七歩兵軍団に北海道上陸の船舶の準備を指示している。

しかし、樋口の指示による抗戦で、占守島攻防は同日まで続き、ソ連は千島列島占領が遅れ、北海道侵攻に及ばなかった。北海道占領を断念したスターリンは同28日、北海道上陸予定だった南樺太の部隊を択捉島に向かわせ、国後島、色丹島、歯舞諸島を無血占領し、北方四島の不法占拠は現在に至る。樋口の反撃の決断がなければ、ソ連が北海道に侵攻し、日本が朝鮮半島のような分断国家となっていた可能性が高い。

野望をくじかれたスターリン首相はそれを恨み、樋口中将を極東国際軍事裁判に「戦犯」として身柄を引き渡すよう申し入れたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のマッカーサー最高司令官は拒否した。当然である。

世界ユダヤ協会が反対したためとされるが、『回想録』では、「終戦後に取り調べを受けた連合国軍の某中佐(キャッスル中佐)から『イギリスが大変あなたをご贔屓(ひいき)にしており、イギリスはソ連の貴殿逮捕要求を拒絶した』と聞いた」と記している。

そうではあるまい。全部ではないにしても、正当に評価されるべきことがそう評価されたのである。

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