2016年3月11日金曜日

乃木将軍は敵将の名誉を重んじた

遇し方というのはあるのではないだろうか。死力を尽くし合ったのであれば尚更である。
このところ、いろいろ調べていて、その感慨が深い。

有色人種でありながら、世界唯一の独立国であった日本が、国の存亡を賭けて戦った日露戦争というのは、割とよく知られている。世界が驚嘆し、アジア諸国のみならずその勝利を喜んだ国もあった。
戦力差にあまりにも開きがあり、日本が勝つとは予想されなかった。
動員できる兵力は、日本陸軍、100万人。ロシア陸軍、200万人
日本海軍、23万トン、戦艦6隻
ロシア海軍、51万トン、戦艦15

東郷平八郎元帥率いる連合艦隊は、日本海海戦でバルチック艦隊をほぼ壊滅させた。
陸上戦では、203高地の激戦で
勝利を収めた乃木将軍は、水師営(清の北洋艦隊隊員の駐屯地)で、ロシア軍の総指揮官ステッセルと会見した。
この時、アメリカ人がその模様を映画に撮りたいとして乃木将軍に願い出たが、「武士道の精神からいって、ステッセル将軍の恥が後世に残るような写真は撮らせてはならない」として断ったという。
その後、再度外国の記者団が写真撮影の申し入れをすると、乃木将軍はそれではと、ステッセル将軍たちに帯剣を許し、「我らが友人となって同列に並んだところを一枚だけ許そう」と答えたという。敗れた側の大将が、勝利者の大将の前で剣を帯びることは、世界の慣例としては許されていなかった。
外国の記者たちは、その寛大さと日本の武士道精神の美しさに息をのみ感動した。

敗れたロシアのステッセル将軍は、責任を取らされ、ロシア皇帝より銃殺刑を宣告された。
日本が裁いたのではない。ロシアの国内法による。
伝え聞いた乃木は、すぐにロシア皇帝に手紙を送り、ステッセル将軍が旅順で死力を尽くして祖国ロシアのために戦ったことを切々と訴え、処刑のとりやめを願い出た。
結果、ロシア皇帝の心は動き、処刑は中止され、シベリア流刑に罪が減ぜられた。
残されたステッセルの家族のために、乃木は自分が死ぬまで生活費を送り続けたという。
(乃木は、明治天皇の崩御にともない、夫人と共に殉死した。)

大勝をおさめたとはいえ賠償は少なかったが、もはや戦争を継続できる国力は残っていず、多くの国民の不満を買った。
勝ちはしたが、国民が浮かれたのは想像に難くないし、後々の歴史に多大な影響を及ぼした。

第二次世界大戦時のイギリス植民地シンガポールは、ここにも日英に圧倒的戦力差があった戦いであったにも拘わらず、あっという間にシンガパールは陥落した。
司令官パーシバル中将は、13000人の兵士と共に降伏した。知らせを聞いたイギリスの首相チャーチルは、「イギリス史上最悪の災害と降伏」と言ったそうである。

敗軍の将パーシバルは捕虜収容所へと送られ、日本の敗戦後に釈放された。
当時、フィリピン防衛の司令官を務めていたかつての敵将・山下奉文が米軍に降伏調印する際、パーシバルはなぜか米軍に呼ばれ降伏調印式に立ち会わされた。
これは敗将山下のみならず、パーシバルにとっても屈辱だったに違いない。

戦後、祖国へ帰ったパーシバルは戦いぶりを非難され続けたが、彼はそれに自己弁護もせず、回顧録にも言い訳めいたことは書かないまま、1966年に78歳でひっそりと生涯を終えたのだという。
英国には引退した将官に「ナイト」の称号を与える伝統があるにも関わらず、敗れたとはいえ勇敢であった筈の彼にはそれさえも与えられなかった。


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