2016年3月4日金曜日

他人の意見に引きずられるのでなく自分で考える為に

神が定めたルールだというなら別だが、人間の決めたものであるなら、改正するということを憲法の例がそうであるように、タブー視して議論の俎上にあげることもできないというのでは、思考が停止状態になる。
コロコロ簡単に変えられては困る法ではあるが、専制君主制下ではあるまいし、民主主義のもとでは一定の手続きは必要なのだから、真に国民の為になることであれば、議論を尽くすのが当然に思える。諸外国では、何回も改正している例があるのは、ご高承の通りである。

絶対反対というなら、その正当性を示して説得し尽くせば良いし、変えるべきだというなら、それも何故なのかを説明し尽くせば良い。
もとより全てオープンにはしきれない情報というのはあるだろうが、国民の代表として選ばれた議員の中でだけでも、自分たちの思惑をいったん置いて考えられないものなのだろうか?

K党だって、制定当時は絶対反対を唱えていたと思うが、いつの間にか今は全く逆に改正反対を唱えている。
ことほどさように、世の中は変わっていくのだから、説明責任というのはあり、国民の納得を得るには、教条的な主張のみでは困る。
何をどうするのが国民の為になるのか?ということは常に頭に置いて、対案無しの質問や揚げ足取りの議論に終始することなく、議員たるの信託に応えて欲しいものである。
最後に決めるのは国民であることは言うをまたないが、変なレッテル貼りや、細部を殊更に取り上げてのミスリードが無いように願いたい。
感情的にならず、真剣に考えたいとする人たちも多いのですから。

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