2016年3月31日木曜日

努力できる幸運に気づくことはあった

「教育格差」ということが問題視される。
家庭の経済格差が、子どもの学力格差・教育格差を生んでいるという。
2013年度の全国学力テストの結果を分析すると、世帯収入の多寡で学力テストの正答率に約20%の開きが生じていました。世帯収入の低い家庭(子どもにかけられる学校外教育費の少ない家庭)の子どもほど、学力テストの正答率が低いことがわかります。家庭の経済格差が学力格差を生んでいるというのだが、親の経済格差や家庭環境がげんいんだとする側面はあるにしても、果たして原因はそれだけなのだろうか?

我々の育った昭和30年代は、今どころの比ではなく多くの人が貧しかった。学校にお弁当を持ってこられない人だって沢山いた。
しかしながら、それでも勉強したい人は大学まで自分の努力で進学したし、手に職をつけたいと決心した人は、それを果たしたのだと思う。
かくいう私も、時に食べられない日はあったにしても大学を卒業し、事業を起こして多少なりとも人様のお役に立てる仕事をしたと思っている。

「薫陶する。」今は失われてしまった言葉であるが、昔の先生は学業で良い点数をとることだけではなく、人として何が大切であり、何に努力すべきかを、身をもって教えてくれたように思う。
試験の成績は悪くても、努力する生徒は励ましたし、長所を見つけ出して伸ばそうともしてくれた。生徒もそれに応えようとする信頼関係があった。

今の時代、「自分はこうしたいんだ。」という希望を述べる子供というのはいても、「こうする」とか「こうできる」という子供は少なくて、全て周りがお膳立てしてくれるのを待っているように思えてならない。
この延長線上にあるのは、そうできなかったのは、誰かの所為ということに結びつく。
環境の整備は政治的にも大事であろうが、生きた教育をするということが先ず求められるのではないのか?
尊敬される先生と、それに応えていこうとする生徒を、どうやって作りだしていくかということを後回しにすると、一番大事な筈の「努力できる幸運」というのは身に付かない。
本人が真剣に望むものは、自らも努力して達成していく能力を持っていると信じている。

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