2019年3月15日金曜日

殆どの日本人が知らないでいるが


日本がドイツと三国同盟以前の防共協定を結んでいた頃のことになる。
1933年に首相になったヒットラーは、ユダヤ人の排斥運動の声明を公に行った。
その迫害により難民の海外流出が懸念され、それについてアメリカが声をあげる形で「ユダヤ人難民を受け入れるか否か」を議題としてパリで国際会議が開かれた。
しかし、当時の国際社会は全ての国が「受け入れの余地ながない」という理由でそれを拒否した。声をあげたアメリカですら、自国の議会においてそれを拒否した。
「受け入れてもいい」と言ったのは二国のみであった。

カナダは「収容能力に限界あり」ということであったし、イギリスは「植民地であるアフリカのギニアで農業してくれるなら受け入れる」ということであった。

その会議前年、我が日本では、五相会議(首相、外相、蔵相、陸相、海相)において、「ユダヤ人対策綱領」を決定していた。
陸軍随一の国際通であった安江仙弘大佐が、「陸軍のシンドラー」としても有名な樋口季一朗少将を補佐する形で推し進められたものだったという。
世界が受け入れを拒否したユダヤ人を、「八紘一宇の精神において受け入れる」と表明したのは、世界でたった一国、日本だけだった。
施策綱領には、「ユダヤ資本を迎合的に投下せしむるが如き態度は厳に之を抑止す」
即ち、「ユダヤ人を人道的観点から保護するが、彼らの資産をあてにすることがあってはならない」という但し書きすらついたものであった。

満州国の建国理念として掲げたのは「五族協和・王道楽土」であった。
天皇陛下の御心でもある「ユダヤ人保護」を決定したのは政府であるが、この成立に最も熱心だったのが板垣征四郎だったのだと言われている。

日本は、三国同盟締結後のドイツの抗議すら毅然とはねつけ、満州に逃れて来たユダヤ人を受け入れた。それには時の陸軍参謀長であった東条英機の働きも大きい。

第一次世界大戦後「人種平等案」を提案したが、アメリカに退けられた日本。
併合し、あるいは植民地にしたともいわれてしまっている朝鮮、台湾の人民にも、教育を施し、インフラ整備をした世界でも類を見ない宗主国だったのが日本である。
板垣は、その後(昭和16年)朝鮮軍司令官になったが、あるとき朝鮮の知識人に対して
「朝鮮は近いうちに独立させなければならないね」と語り、相手が唖然としたという話が残っている。

終戦間近、板垣はシンガポールの第7方面軍司令官に赴任した。
「阿波丸事件」が起こった頃のことである。
現代の日本ではいまや一般には全く知られていないが、アメリカの国際法違反事件、戦争犯罪の一つで、緑十字をつけて運行していた阿波丸を、米軍潜水艦「クィーンフィッシュ」が魚雷攻撃により沈没させた阿波丸の乗客乗員は、一人を除き2000人余りが死亡したという事件。
明らかに、人道に反する犯罪であった。

阿波丸は、アメリカから依頼されて、東南アジアに収監されているアメリカ人捕虜に届けるための慰問品を積んでもいた。
阿波丸の着けていた緑十字は病院船の赤十字と共に、安導権(Safe-conductを付与されている船舶であり、これを攻撃することは明らかに国際法違反であった。
この馬鹿潜水艦の艦長は、その後軍法会議で形ばかりの有罪にはなったというが、「戒告処分」であっただけで、あくまで物資を沈めたことに対する不注意を咎めたにすぎず、2千名の命を一瞬にして海に葬ったことについての罪ではなかった

かなり日数が経過して事の次第が明らかになり、第7方面軍司令部は当然激昂した。
会議の末、「このような非人道的行為に対し報復するため、捕虜に送られた慰問品を全て没収し、海中に投棄して見せしめにすべし」ということで衆議一決したのであったが、この報告を聞いた板垣は、語気も鋭く、「馬鹿もの!敵の卑怯な振る舞いに対して、こちらが卑怯な態度で対応したら、日本武士道の魂はどうなるのか。捕虜の方々には丁重に慰問品をお配りせい!」と一喝したのだという。武士道の面目躍如である。

板垣征四郎は、ユダヤ人たちに救いの手を差し伸べた一人でありながら、杉原たちのように顕彰されることもなく、これもユダヤ人を救った東条英機と同じく、極悪人と同義語になってしまっている「A級戦犯」として処刑された。

日本人は受け入れてしまっているが、ユダヤ人たちは、彼らをどう語り継いでいるのだろうか。

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