2019年3月14日木曜日

形式に囚われて学ぶ姿勢がなかった


少し前に、朝鮮の側が度々日本の国土を侵すような行為を繰り返していたのだという歴史事実を列挙して書いたが、それも戦国時代以前位までのことであり、室町時代が終わるころには、文化にしろ軍事にしろ、日本は既に朝鮮を圧倒していた。
それ以前には、日本の島嶼を度々襲い、残虐行為を繰り返していたが、秀吉が朝鮮を攻めることによって、以後は圧倒的に軍事力が劣っていることを身に染みて理解したと思われる。
徳川時代に度々使節を日本に送って来たのは、日本が朝鮮を攻める兆しがないかどうかを探るのが主目的であった。江戸までの道中の行き来で目にした日本の優れた文物の報告は、その都度使節によってなされたらしいが、ついぞ取り上げられて彼の国で利用されることはなく、水車さえ韓国で作る技術を持つことができなかった。

歴史というのは調べてみると面白い。いろんな説があって、今まで教え込まれたものよりも説得力があって納得してしまうことが多い。

豊臣秀吉の朝鮮出兵を、朝鮮側では壬辰の倭乱と呼称する。
むかしの日本では、加藤清正の虎退治の方がよく伝わっていたのではなかろうか?
朝鮮王朝は倭軍の侵攻に苦しみながら、義兵の抵抗、李舜臣率いる水軍の活躍、明の援軍によって撃退した。しかし国土の荒廃、人口の減少によって国力は低下し、生産と文化の停滞のなかで、李朝政権は支配維持のために儒教理念による体制強化に向かうこととなった。
とはいえ、門閥に囚われて実力のあるものを登用することはなかったし、儒教そのものも字句の解釈をこねくり回すだけで、実用に供す学問として発展させられなかった。
壬辰年は1592年で文禄元年、丁酉年は1597年で慶長2年にあたる。朝鮮王朝の国王は第14代宣祖であった。
豊臣秀吉の明侵攻軍を誘導して協力せよという要求を、朝鮮の朝廷は拒否した。
使節として秀吉のもとに派遣された正使は秀吉の目はランランとして本気だから対策を立てるべきだと報告したが、副使は秀吉の目はネズミのようで恐るるに足りない、出兵はできるはずはなくおどしにすぎないと伝えた。
要するに、こうあってほしいという願望が優先するから、事実を読み取れなかったということである。
国王の下で政治にあたっていた柳成龍は後者に与した。前者は官僚のなかの西人派、後者は東人派に属しており、当時の朝鮮宮廷内の両班層の政権闘争の対立が、誤った情勢判断をもたらしたのだった。

秀吉が明を支配しようとしたのは、無謀な領土的野心であったと学校では習ったが、それはどうも違うのではないかと思えるような説がある。
秀吉が宣教師によるキリスト教の布教を禁じたのは、布教の名に隠された侵略の意図を見破ったからであることはつとに知られた事実である。彼は、洞察力が並外れて優れていたのである。
秀吉は、宣教師を先兵として日本を植民地にしようとやってくる白人たちを見ていて、朝鮮や明がそれを阻むことができるような国々ではないと判断していた。中国や朝鮮を足掛かりにして日本の背後を狙われたらたまったものではない。
現代人は見くびっているが、当時の戦国大名たちは驚くほど世界の情報を知っていたのだと思われる。
伊達政宗が、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、スペイン国王・ フェリペ3世、およびローマ教皇・パウロ5世のもとに使節を派遣したことからも、容易にそれは類推できる。
明や朝鮮がそれら西洋の侵略者たちに征服される前に、その憂いを断ってしまおうと秀吉が考えていた節があるのだという。

1592年4月、朝鮮側の表現によると、倭軍は釜山に上陸、、各地で破壊と略奪をしながらたちまち首都漢城を陥落させた。国王宣祖は涙を流しながら都を捨て、北の平城へと避難した。その間、慶州の仏国寺(新羅時代の仏教寺院)や芬皇寺などが焼かれ、多くの文化財が失われたり略奪された。
当初、両班は抵抗しないでいたが、民衆は各地で激しく抵抗し、次第に両班層や僧侶のなかにも義軍を組織して組織的な抵抗を開始するようになった。また朝鮮水軍の李舜臣は、亀甲船を工夫して海上で活躍し、倭軍の補給路を断って苦しめるようになった。
倭軍が明との国境鴨緑江に迫るなか、明がついに援軍を派遣し、平壌の戦いで小西行長軍を破り、倭軍の進撃をくい止めた。ということになっている。

しかし、実際には朝鮮の民は朝鮮王朝に不満をもっていたので、日本軍に協力する者が多かったのだという。
王は真っ先に逃げ出して戦うことはなかったし、戦いの矢面に立つ将兵がいかに頑張っても、それが評価されることもなく軽んぜられたから、命がけで戦うより逃げるのが先となった。
そうでなければ、秀吉軍の進軍スピードの速さの説明がつかない。
彼らがいま自慢している亀甲船も、疑いの多い船である。そんな構造の船が浮くわけがないといわれてもいる。
李舜臣も名将という事になっているが、その実は信義破りの将軍であり、停戦協定がなされて引き上げる日本軍の後を秘境にも襲ったのであった。その結果、島津軍に反撃されて戦死したのが歴史事実である。

明が参戦しなかったら朝鮮だけではどうにもならなかった。
碧蹄館の戦いで日本軍に敗れ、両軍は一進一退を繰り返すなか、北方の女真との戦いも抱えて明は講和をもちかけざるをえなくなり、一旦停戦が成立した。しかしこの講和には朝鮮政府は関わることがなく、豊臣軍と明軍の間になされたものに過ぎなかった。その明はほどなく清に滅ぼされた。
朝鮮はまたまた情勢を見誤り、明に与したことで、以後、長きにわたり清からの圧力に屈するよりなかった。
その軛から逃れることができたのは、日清戦争で日本が勝ったからであり、朝鮮が独立をかけて戦ったからではない。

秀吉の死によって戦は終了したが、これ以後、朝鮮がたとえ何事であろうと、日本の上を行ったことは一度もない。

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