2019年3月18日月曜日

検討してみてもよいのでは?


いま韓国では、失業率が異常に高いのだという。改善の兆しはない。
殊に若年層の働く場所がないため、ヘル朝鮮と自らの生国を蔑み、国を捨て海外に活路を求める動きがあるというのだが、嫌いだと公言している日本に就職先を得ようというのには、如何にしても違和感がありすぎる。

徴用工の例に見るまでもなく、いずれ不満を並べ立てて反日運動に走ることは目に見えている。
それは違うと庇う人もいようが、彼ら民族の性格が変わったわけではあるまい。
就業ビザの審査を厳しくすべきだと思う。国民性に信頼を置くことができない。
ビザを復活させた方が良いという意見が多くなっている。
日本が好きでやってくる人もいるのだからと反対する人もいるが、そういう人たちが入国を拒否されるわけではあるまいし、本当に日本に来たいのであれば査証を申請すれば良い。
同害報復で日本人の入国が制限されるとの主張もあるが、外国であるのだからそれは仕方あるまい。
前々からノービザであることを良いことに、沖縄などで犯罪紛れの騒動を起こし、暴れまわる輩も多いと聞くし、犯罪を侵せば強制送還されるのが世界の常識であるのに、それにも日本は緩やかすぎるとの指摘もある。通名報道では判らないが、本名を知らされれば外国籍であるということが後に判る例もある。
野放図に入国を許すのは、互いのためにならない。

在日問題も無視できまい。日韓正常化交渉の時の汚い交渉手段の時と比べて、その国民性が変わっているとは思えないし、今後もそれが変わることは期待できない。
韓国内で本来就職などの政策を整えなければならないのに、韓国政府が有効な対策を考えている節は全く見えず、1960年代に取った棄民政策の轍を今も踏もうとしているのではないのか?

日韓正常化交渉の折、それまでに日本にやってきていた韓国からの多数の不法入国者を、日本側から送還されると、帰国者が自国の残虐行為を国内で明らかにすることは自明であり、非常に困るということで引き取りを拒否した。人道的立場から、日本側はやむなく在日韓国人という特殊な身分の受け入れをするよりなかったというのが歴史である。
日本に居た韓国人は、韓国での迫害から逃れて来たのであるから帰りたくないのは解かるにしても、日本に住むことができたのは日本のお陰なのに、その恩を忘れて反日行動をするから、いつまで経っても信用されないのである。

ネット上に、「テーマ:在日特権」という記事があった。

李承晩ラインによる韓国の非道
1952年1月18日、突如、韓国政府が公海上に「李承晩ライン」を引き、竹島(独島)をその中に含めた。
何故、1月18日であったのか?

サンフランシスコ講和条約が発効するのは4月であり、それ以前の日本は身動きが取れない状態であったから韓国の竹島占領に対して邪魔もできない。

2月28日、日韓の国交正常化交渉の本会議が始まる一ヶ月ほど前に韓国側として、国交正常化交渉を自国に有利に進めるという側面から、竹島問題を引き出してきたのである。李承晩ラインとそれに引き続いて発生する竹島問題に対して、日本側はどれだけの準備をし、あるいは、自覚していたのかというと、ほとんど 認識していなかったのではなかろうか。

問題が起こってから騒ぎ立てるというのは、日本の一つの外交パターンだが、韓国側としては、実は周到な準備をして日韓の国交正常化に臨んでいたのである。すなわち日本側の譲歩を引き出すため、国交正常化交渉の外交カードとして使ったのが、竹島問題であり、李承晩ラインであったからだ。

 李承晩ラインが登場する背景には、サンフランシスコ講和条約があった。
こ のサンフランシスコ講和条約は、1951年9月8日に調印され、52年の4月28日に発効している。問題はその第二条の(a)項にあった。草案の段階では 「鬱陵島・竹島・済州島」が日本の領土から離れて、朝鮮側に返還される領土・島嶼と規定されていた。それには「連合国軍総司令部訓令第677号」というの があって、そのとき連合国軍総司令部が竹島を韓国側として規定していたからである。

ところが講和条約の最終案では、日本から除かれる地域が「済州島・巨文島・鬱陵島」とされ、同条約によって竹島は朝鮮領から除外されていた。
草案から最終案が決定する際に、日本側とアメリカとの間で交渉が行なわれ、竹島は日本領土として確定したからである。
だが、これは韓国政府にとっては深刻な問題であった。講和条約が発効すれば、竹島は日本領となってしまい、竹島を韓国固有の領土と信ずる韓国側は、危機感をもったのである。そこでサンフランシスコ講和条約が発効する以前に、自分達で自国領土として宣言し、翌月からはじまる日韓国交正常化交渉の外交手段としたのである。

その姿勢は、韓国側が「李承晩ライン」を「平和線」つまり平和の線とよぶことにも現れている。「平和線」とは、日本の漁民が韓国の領海を犯して自 国の資源を乱獲しているので、それをやめさせるための線だから平和線なのだという。それに韓国側では、竹島は歴史的にも自国のものとする認識を李承晩大統 領自身がもっており、当時の韓国の人たちにも、竹島を韓国固有の領土とする歴史認識が形成されていた。
その歴史認識に決定的な役割を果たしていたのが、崔南善である。

彼は日本の統治時代、朝鮮総督府の歴史編纂官で、日本にもよく知られていた歴史学者だが、その崔南善のもとを、韓国政府の兪鎮午という、後に日韓 の国交正常化交渉の際に第五次の韓国側代表となる人物が訪問し、竹島が歴史的に朝鮮領であるとして確信できる確かな論拠を教えてもらっていた。兪鎮午はそれを李承晩大統領に報告し、韓国政府は李承晩ラインを引いて、竹島を自国領として宣言したのである。

しかし、「李承晩ライン」は、一方的に公海上に引いた線である。公海上では当然、日本の漁民たちは漁業を行なっているわけだから、結果として日本 漁船が拿捕されることになった。「平和線」という名称と目的とは裏腹に、戦後の日韓関係を憎悪と不信に駆り立てる導火線となった。
1952年2月15日から始まった日韓の正常化交渉の最中にも、韓国政府は「李承晩ライン」に依拠して日本漁船を領海侵犯の容疑で拿捕しつづけ、交渉にも重大な影響を与えることになったのである。

この「李承晩ライン」については、宣言の直後からアメリカ、イギリス、中華民国からも違法性が指摘された。のちにアメリカのハーター国務長官は「韓国が日本漁船を公海で捕獲し、船を押収、漁夫に体刑を課していることが日韓関係を著しく悪化させている」として、韓国政府の措置に憂慮を示している。(1960年3月17日付『朝日新聞夕刊』)

韓国は李承晩ラインを盾に何名くらいの日本人を抑留し、日本漁船を拿捕したのか?

,929人が抑留され、328隻が拿捕されたし、その過程で四十四名の方が死傷してしまった。1953 年1月6日、第二次日韓会談の再開が合意され、予備交渉が1月27日から始まった。しかし、その予備交渉が始まる直前の1月12日、李承晩大統領が「平和 線」内に出漁した日本漁船の拿捕を指示し、1953年2月4日には、「李承晩ライン」を侵犯したとして日本の第一大邦丸が韓国側に拿捕され、漁労長が射殺 されるという事件も発生している。

1953年12月12日、韓国政府は「漁業資源保護法」を公布した。その「第三条(罰則)」では、「違反した者には三年以下の懲役、禁錮または 50万ウォン以下の罰金」が科せられ、「第四条」では、犯罪捜査や臨検捜索の権限が認められた。日本漁船を拿捕する法的根拠が準備されたのである。つま り、それまでの韓国の漁船拿捕は、韓国の国内法においても取り締まる根拠がなかったのに取り締まっていたわけで、国際法および国内法に照らしても、不当 だったのである。

日韓の正常化交渉はこのような状況の下で行なわれていた。

おりしも国交正常化交渉が山場を迎えていたころ、日本は岸内閣が外交交渉にあたっていた。韓国側に拉致された日本の漁民は岸首相のお膝元である山口県や 中国地方の人たちが圧倒的に多かったため、岸首相としては、地元の漁民たちを、何とか救いたいという気持ちに傾いていかざるを得なかった。一方、日韓の国交正常化交渉でいちばん大きな問題は、朝鮮半島に残された日本人の個人資産の処置問題であった。その個人資産は、当時の韓国経済の80%に当たるともいわれていたからだ。韓国側としては、それを持ち出されたら困る。何とか、日本側に搬出させないためにはどうしたらよいのか。

そこで韓国側が外交カードとして使ったのが、拉致した漁民たちである。

「竹島問題」や「李承晩ライン」、個人資産問題で日本側が譲歩すれば、漁民を解放しようというのである。
公海上に引かれた李承晩ラインを根拠にして拿捕して、その抑留した人々を韓国側は外交交渉の手段に使った。現在、北朝鮮との間で問題になっている拉致問題とよく似たパターンといえよう。
もしこれらの人々を返してもらいたかったら、日本は賠償をしなさい!在日韓国人の法的地位を認めなさい! あるいはまた朝鮮半島に残してきた日本人の個人資産をゼロにしなさい! という外交交渉のカードに利用した。


日韓基本条約の交渉過程を見れば、当時の佐藤栄作首相も、以下のように発言したのも納得できるのではないだろか。「しかも、これは、国際的に見まして、こんなむずかしい交渉はないといわれておる。」
[005/005] 50 -
- 日本国と大韓民国との間… - 5号 昭和401028日発言者232を参照

知っていますか、日本の島 自由国民社 下条正男他著
下條正男氏講演 「領土問題の現状と課題」

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