2019年8月20日火曜日

アメリカでの方が有名となった手紙


(下記文中の青色文字の部分は、手紙へのリンクとなっているので、一読されんことをお勧めします。)
硫黄島の戦いは、日米で今も語り継がれる戦史に残る壮絶で凄惨を極めた玉砕戦であった。
1945年2月15日の米軍上陸から始まり、3月26日まで繰り広げられた。
日米の島嶼における戦いでは唯一、米軍の死傷者が日本軍のそれを上回った。
島を守る日本側の兵数は、陸軍が栗林忠道中将率いる13,586名、海軍が市丸利之助中将率いる7,347名、合計2万933名であった。
対する米軍は、11万人の大軍。物量にも大差があった。

ウィキペディアでは、下記のように記されている。

1945326日未明、日本軍硫黄島守備隊は最後の組織的反攻を行い栗林忠道陸軍中将、市丸海軍少将以下、数百名の残存部隊がアメリカ軍陣地へ総攻撃をかけた。
市丸少将は遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた『ルーズベルトニ与フル書』をしたため、これをハワイ生まれの日系二世三上弘文兵曹に英訳させ日本語、英語各一通を作りアメリカ軍が将校の遺体を検査することを見越してこれを村上治重大尉に渡した。村上大尉は最後の突撃の際にこれを懐中に抱いて出撃し戦死。『ルーズベルトニ与フル書』は目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、711日、アメリカで新聞に掲載された。それは日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くものであった。「卿等ノ善戦ニヨリ、克(よ)ク「ヒットラー」総統ヲ仆(たお)スヲ得ルトスルモ、如何ニシテ「スターリン」ヲ首領トスル「ソビエットロシヤ」ト協調セントスルヤ。」(ルーズベルトは412日に死去したため、『ルーズベルトニ与フル書』は本人は目にしていないとみられる。)
なお、公式な戦死日は訣別の電報が打電された317日とされている。市丸の最期を確認した者はおらず、遺体も発見されていない。
市丸が所有していた刀を米兵が拾い、ニュージャージー州の骨董店に並べられていたが、市丸の遺品であることが判明NHKのテレビ番組を通じ遺族の元へ戻っている。

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