2019年8月22日木曜日

それ以上戦えなかった


日露戦争は、勝つには勝ったが、実態はそれ以上戦争を継続できないくらいの薄氷を踏むような状況であった。
一人日本の力だけで勝利を得たのではないのだが、それを知らない人が多い。
当時のイギリスのロシアに対する都合と思惑が絡んで、日英同盟が結ばれていたことも大きかった。
それによりロシアのバルチック艦隊はアフリカ大陸を大回りし、途中の寄港地でもイギリスの意地悪により補給もままならず、疲れ切って日本海に辿りついていたのである。

日露戦争当時の日本経済は、名目GNP約30億円、国の一般会計予算約3億円、日銀券発行残高約3億円、全国預金残高7億6千万円というサイズでしかなかった日本は当時のGNP2.5倍、国家予算の60年分の負債を積み上げて日露戦争に挑んだのだから、国の存亡をかけた文字通り命がけの戦いであった。

明治38年(1905年)95日、日本とロシアの代表の間で「日露講和条約(ポーツマス条約)」が締結されたが、条約の内容は、ロシアは日本に対して一切の賠償金を支払わず、領土については、日本軍が占領していたサハリン島のうち南半分を日本の領土とし、ロシアが有していた中国東北部の権益は日本に譲渡される、というものであった。
このような条約内容での合意に至った交渉の経緯は、日本国内でも報道されてはいたが、死傷者総数20万人以上という犠牲と、重税や生活の切り詰めによって約20億円もの戦費を負担するという金銭的な犠牲を払ってきた多くの国民は、戦勝による見返りを当然のことながら期待していたけれど、これを大きく裏切るものだったのであった。
しかしそれでまとめるより他ないくらい、日本も疲弊していた。
《ポーツマス条約締結と時を同じくして、米国の鉄道王と言われたエドワード・ハリマンが来日、日本政府に、鉄道をシンジケートで共同経営するよう持ちかけた。
南北戦争をしていたことで中国への進出に出遅れたアメリカとしては、それまでの日米の関係の良好さもあって、かなり友好的な提案であった。

 桂太郎首相や伊藤博文、井上馨ら元老は乗り気だった。日露戦争で金を使い果たし、鉄道を経営する資金のメドがたっていない。しかも日本単独では、ロシアが満州を奪還しにくるのを防ぐ自信もなかったからであった。
 このため10月にハリマン側と協定書に調印するところまでこぎつけたが、ポーツマスから帰国した外相、小村寿太郎が待ったをかけた。「満州は日本の勢力下におくことが国益にかなう」というのが小村の主張だった。
 戦争に勝って得た鉄道まで手放すことへの国民の不満も小村に味方した。結局政府は共同経営を断念、資本金の半分を外債で賄うことで単独経営を決めた。

 こういう時に、国の実情を理解することができず、感情的になって騒ぐ民意に従うことは、えてして判断を誤る。そんな実力はまだ日本に備わっていなかった。
 今の韓国の有様を見ていると、それがよく解かる。
 以後、アメリカは反日的な流れになっていったのではなかろうか。
「歴史にifはない」のだとしても、もし南満洲鉄道をアメリカと共同経営していたら日本の歴史が大きく異なっていたであろうことは確かでる。

 このハリマン提案を拒否したことについて、今となってみれば「共同経営を受け入れておれば、日本があれほど大陸に深入りすることはなかった」との批判が根強い。だがその後、移民問題などで日米関係が悪化したことなどを考えると、共同経営がうまくいったかどうかは一概には言えないことではある。
 しかし、もし米国と満洲の権益を二分していれば、日本は単独でロシアの南下を防ぐ必要はなかったに違いないし、米国と戦うことになるのもなかったかも知れない。

 日本人が歴史から学ぶべきことは、小村寿太郎のような「正論」だけでは世の中は回らないし、いけいけどんどんではすまないということであって、自国の実態実情・実力を見極め、無用な軋轢を避ける意味での「妥協」とか、全体のバランス感覚というのが政治には必要だということなのではないだろうか。

軍部の独走によって以後の日本が道を誤ったというが、国民にだって責任はある。

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