2019年8月24日土曜日

法に基づいて統治はしたが

植民地というものがどういうものなのかということを明確に定義しないで、押しなべて植民地という表現で一括りにするのは、歴史を論理的に交渉するには阻害原因としかならないように感じられてならない。
日本のマスコミがそれを意図的にかどうか解らないが、安易に口にすることで、日本人がある種の怯みを覚えさせられてきたことは事実だが、日本の植民地というものに対してはちょっと違いのではないのか、という認識を持つ人が増えたように思う。
物事を論理的に考える時に一番重要になるのは、言葉の定義づけである。
植民地という言葉を使う時には、その定義づけがなされないまま安易に使うと、共通認識は生まれない。
諸外国による現実の植民地政策がどのように悲惨なものであったかと較べ、個別の検証をしないままで論ずることには無理がありすぎる。

日本人も簡単に韓国を植民地支配したと口にする人が多いが、白人によってなされた植民地と混同するから、お互いの言い分に齟齬が生じる。
搾取するような物がなく、虐げることがなされたことがなかった韓国が言うように、植民地支配されたということを鵜呑みにして全て認めれば、日韓は未来永劫政治的には協調できないことになる。
是々非々での検証をして公平に事実を事実として明らかにしないままでは、収まりは決してつくまい。世界諸国における植民地支配国と被支配国のように、完全な和解はなくとも協調していく関係が築けるかどうかが問題ということであろう。
日韓は、認識のズレをすり合わせるには時間が経過しすぎた。
もはや、この先も政治的に折り合いがつくことはあるまい。


明治43年(1910年)、日本と韓国は合邦しました。

渡部昇一(上智大名誉教授)の書かれていたことを下記にそのまま引用させて頂きましたが、解りやすいと感じました。

日韓併合を日本による韓国の「植民地化」ととらえる考え方があり、むしろ、それが一般的な風潮となっています。もちろん、韓国や北朝鮮は政治的な利害からそう主張している。
しかし、それは日本と朝鮮半島という、地域的にも思想的にも限定的な、狭い見かたにすぎません。
アジアに対する欧米の帝国主義、植民地主義が当然とされていた時代の、世界史的な視野で見るべきだと思います。

たとえば、英語の文献では、日韓合邦のことを「アネクセイション」(annexation)と表現しています。これは「植民地化」を意味する「コロナイゼーション」(colonization)とはイメージがまったく違う。
歴史を公平に客観的に見るには、言葉が当時どのように使われていたかを知ることも重要です。現代の常識で過去を断罪すべきではありません。頭ではわかっていても、ついつい今の物差しで歴史を計ってしまいがちです。

そこで、少々衒学めきますが、初めに「アネクセイション」と「コロナイゼーション」の違いをイギリスの辞典などにもとづき、できるだけわかりやすく述べておきたいと思います。

まずコロナイゼーションの語源を考えてみましょう。“colonization”の“colo”は「耕す」とか「居住する」という意味です。このラテン語の動詞の過去分詞“cultum”は「耕された」「洗練された」の意で、「耕作」「教養」の意味の英語「カルチャー」(culture)も、そこからきています。

 “cultum”の派生語である“colonia”(コロニア)は、「農場」「領地」という意味でした。元来はローマ帝国の拡大にともなって新たな征服地へ移り住んだローマ市民、とくに「ベテラン」(veteran)と呼ばれる除隊した兵士たちが住んだ土地のことです。彼らはローマ市民権を持ち、駐屯兵として帝国防衛の役割も担いました。「屯田兵」のようなものと言えばわかりやすいでしょうか。

 イギリスをみてみると、ブリテン島にはローマのコロニアが九つありました。よく知られている地域では、ロンドン、バース(Bath)、チェスター、リンカーンなどがあげられます。いずれも当時はローマのコロニアでした。

 さて、ローマ時代には「農場」「領地」という意味だった「コロニア」が、やがてギリシャ語の「アポイキア」(apoikia)の意味にも使われるようになりました。ギリシャはシュラキウスやイタリアの島に入植し、独立・自治の・植民地を建設した。それが「アポイキア」で、メトロポリス(母なるポリス)から独立して住むところという意味でしたが、それもラテン語ではコロニアというようになったのです。

 では現代英語で「植民地」をさす「コロニー」(colony)という言葉はいつから使われるようになったのか。

 最初にコロニーという言葉を英語で使ったのは、リチャード・イーデンという十六世紀イギリスの翻訳家です。ペルーのインカ帝国を滅ぼし、文明を破壊した例のスペイン人、フランシスコ・ピサロの行状を書いた本の翻訳のなかで彼が初めて「コロニー」という言葉を使いました。一五五五年に出版した“The Decades of the New Worlde, or West India”(「新世界あるいは西インドの数十年」)という本に出てきます。
 一八三〇年代になると、アメリカでは、「コロナイゼーショニズム」(colonizationism)=植民地主義とか、「コロナイゼーショニスト」(colonizationist)=植民地主義者という言葉も用いられるようになりました。これなどはまったく批判的な意味合いを持っています。

 もともと悪い意味ではなかった「コロニア」という言葉が、大航海時代に白人が有色人種の国を征服していくにしたがって「コロナイズ」という言葉を生み、「掠奪」「侵略」というイメージを持つようになったのです。

 その「コロナイゼーション」という言葉は、日韓合邦については私の知る限り、イギリスの文献にはまったく現れません。すべて「アネクセイション」(annexation)と書かれています。

「アネクセイション」という言葉は、イギリスの哲学者フランシス・ベーコンが一六二六年より以前に書いたといわれる“Union England and Scotland”(イングランドとスコットランドのユニオンについて)のなかで、「二つの国(民族)の土地から、一つのコンパウンデッド・アネクセイション(複合した合併)をなす……」と、平等というニュアンスで使っています。

 一八七五年には、ジェームズ・ブライスという法学者・歴史学者が、“The Holy Roman Empire”(神聖ローマ帝国)のなかにこう書いています。
「フランスは、ピーモントをアネクセイション(合併)することによって、アルプス山脈を越えた」。ここにも「掠奪」という意味合いはまったくありません。

 動詞の「アネックス」(annex)は、subordination(従属関係)なしに、という意味を元来含んでいて、もともとどちらが上というニュアンスはなかったのです。

 一八四六年に出た『英国史』、元来はラテン語の本で、それ以前に出版されているのですが、そのなかには「ジュリアス・シーザーはブリテンをローマ帝国にアネックスした」という記述があります。この場合も、ローマの文明をブリテン島におよぼしたというニュアンスが強く、掠奪したという感じはない。
 一七七一年にグレートブリテンのエディンバラで第一版が出たブリタニカは、イギリスのみで発行されていた時代には『ロンドン・タイムズ』と並び情報の公平さで世界的に評価され、世界中の知識人に読まれた信頼度の高い事典です。そこには、こう書かれています。

「一九一〇年八月二十二日、コリアは大日本帝国(Japanese Empire)の欠くべからざる部分(integral part)になった」

 ここで「欠くべからざる部分(インテグラル・パート)」という書き方をしていることからも、・植民地・とは見なしていないことがわかります。

 「国名はおよそ五百年前に使われていた朝鮮(Chosen)に戻った。(略)日本が外交権を持った一九〇六年以来、日本によって秩序ある体系的な進歩がはじまっていたが、これ(合邦)によってその進捗はさらに確かなものになった」。ただ、「コリアン・ナショナリズムの抑圧を批判する人もいる」ということも書かれ、以下、およそ次のような趣旨の記述が続きます。

「警察制度を整備して内治をすすめたことによって泥棒や強盗団が跋扈していた辺鄙な地方の治安もよくなった。朝鮮の平穏さは、併合(アネクセイション)以来、曇ることなく続いていたが、一九一九年三月に突如、騒乱が起こった(渡部注 三・一運動)。これはウィルソン米大統領の唱えた民族自決主義(セルフ・ディタミネーション)の影響であったが、ただちに鎮圧された。日本は慎重に改革を進めていたが、これを見て計画を急ぐことになった。注目すべきことに、軍人だけでなく民間人でも朝鮮総督に就任できることになり、総督は天皇のみに責任を負う立場から、首相に従うこととなった。(以下、割愛)

国際的な合意も得て日韓の併合をし、土着民族の後進性を色濃く残す朝鮮を、日本の国力を傾注して近代化に導いた施策は素晴らしかったと思うが、韓国人たちにとってはその全てが恨みだというのだから仕方あるまい。
種族主義から抜け出せない思考形態は、反日思想に凝り固まり、意識は過去にのみ向かうばかりで未来に向かっての協調を目指せないほど牢固なものらしい。
彼の国で戦後70余年にわたって刷り込まれた歴史教育が匡されるには、それに倍する年月を要すであろうから、こちらからは如何ともなし難い。

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