2020年5月15日金曜日

その地の人たちのためになった植林


山の緑を保つことの重要性を昔から自然に身に着けていた日本人は、台湾や朝鮮に植樹をしたことはよく知られている。
殊に乱伐により禿山同然になっていた朝鮮の山々の緑は、日本人によって復活した。

近年も、アフリカ諸国や中近東で日本人が中心となって植林を進めているが、それはかなり昔から積極的に取り組んできたことでもある。
日本人は、山林の緑を守ることが人間にとって如何に大切か、大昔から身に浸みて知っていた。

杉山龍丸は1919(大正8)年に福岡で生まれ、私財をなげうっても植林により、インドの砂漠化を防いだばかりではなく、そこには作物が育つ広大な土地ができた。
ヒマラヤからの水の流れが地下にあるのに、地上が荒れ地である筈がない。
植林開始と共に旱魃に襲われ、3年間で500万人が餓死する事態になり、インド政府も事業中止に至ったが、杉山は自分の所有する杉山農園を売却して資金を調達し、家族を日本に残して渡印して、事業に身を捧げた。

武田英文が中国の蘭州を初めて訪れたのは2004年。飛行機から降りて目に入ってきたのは木の生えていない黄色の土の山ばかり。その時に、ここで緑化事業をやり、山を緑で覆いたいと決心した
その後の15年、武田は秋田県林業育成協会の責任者として募金の呼びかけを行い、約800万元(約12000万円)を集め、蘭州市の南北両山、敦煌(Dunhuang)の陽関鎮(Yanguan)、天水市(Tianshui)の秦安県(Qin'an)などで約534ヘクタールを造林し、140万本の苗木を植えた。
「多くの人から、甘粛で1本の木を植えるのは子どもを養うより難しいと言われた難事業であった。実際にやってみると非常に難しいことが分かったが、甘粛省の人たちの情熱がなければ、植林事業を続けることはできなかっただろう」と武田は言う。
中国で砂漠緑化の父と呼ばれる83歳の日本人・遠山正瑛は、内蒙古の恩格貝(エンゲルべい)で植林を始め、97歳で亡くなるまで14年間も続けた。その植林事業は今も日本沙漠緑化実践協会に参加する数多くの日本人に受け継がれている。協会の名前が「砂漠」ではなく、「沙漠」と書くのは、砂漠の地下に水があるからこそ植えた木が生きられるのだと、協会の人々が確信しているからだという。

日本人が世界各地でなしていることは、その国が自立するために手助けになることである。
返済が不可能になるような膨大な資金を注ぎ込んでインフラ整備をし、それが思惑通り返済不能になると、その地に基地を築いて侵略の足掛かりにしようと目論むようなどこぞの国とは違う。
そういう行為は段々に見破られるようになり、反発を招くようになってきている。

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