2020年5月6日水曜日

自己主張ばかりしないのが日本人


世界の歴史をみると、政権を維持できなくなった為政者の末路は、その殆どが哀れである。
殊に戦争に敗れた君主は、革命により命を落したり、外国に亡命して細々と暮らすしかなかったのが実情であろう。
第二次世界大戦で大敗を喫した日本国天皇は、戦後8年余をかけて日本各地を巡行した。
戦後間もなくの時期は護衛すらなかったから、いつ襲われるかわからない状況のもとであったが、群衆の中に入っていってもそんな危険には遭遇しなかった。
覚悟の上の巡行がもたらしたものは、焼け野原の中で呆然としていた国民が、復興の決意を固めて一致協力して立ち上がる原動力の一因となったのが確かなことのように思える。
薨去直前の「もう駄目か」というご下問も、自分の命を惜しんでのものではなく、唯一行幸が叶わなかった沖縄の地への思いの発露だったという。
そういうことを伝えられることもなく、知らずに過している人が殆どであろうが、日本人の民度を信じることができることは誇りである。

2600年余の歴史の中で、武家の政権は度々変わったにも拘わらず、連綿として継続した天皇家と国民の間に出来上がり培われた絆とは一体なんなのだろう。
そこに思いが至らない政党は、日本においては淘汰されてしまうようである。
日本的資本主義と呼ばれる経済も、世界からは不思議がられる。ある部分では社会主義的ですらある。
共産主義のそもそもは私有財産の否定であろうが、そんな絵空事で国民生活が向上するわけはないことは、いわゆる共産主義国における貧富の格差の実態を見るまでもなく判る。
知的財産権を理解できず、それが無料で国有のものにできると思い込んでの経済活動を、いつまでも世界各国が容認できる筈がない。
資本主義とは「経済成長と短期的利益の両方を最大化するために最低限の規制を受けた自由市場であり、その原動力は競争と増大された生産性」だとされる。
しかし、効率一辺倒ではないのが日本的資本主義の原点のようにみえる。精神性が加味されているのである。
その場限りのことにとどめず、将来を考えて真に持続可能な世界経済のための根本的な最適化を、どこかで考えているのである
封建時代の昔からあった日本の「入会」制度では、実際の土地所有権は複数の世帯が保持していたが、それらの世帯がお互いに恩恵をもたらす管理の取り決めに合意して運営されていた。
そこでは如何に困窮時であろうとも取り尽くすということがないのが不文律であった。
自分の好むものをむさぼり求める貪欲を恥と考え、足れるを知るということを重んじた。
自分さえよければと考える世の中であれば、そうはならない。

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