2020年9月1日火曜日

少数意見なのではないのか?




下段は、朝日新聞の論座に書かれていたものである。新聞で扱うような内容とはとてものこと合致しない個人的な感情論としてしか受け取れない。いいところ、この書き込みのように、ブログかツウィッターで間に合う意見でしかないように思う。)

私たちの再出発は、公正と正義の理念の復活なくしてあり得ない。(白井聡 京都精華大学人文学部専任講師)というのが書き起こしである。
(というのであれば、下記の意見はどこが公正だと言えるのか?)

安倍政権の7年余りとは、何であったか。それは日本史上の汚点である。この長期政権が執り行なってきた経済政策・社会政策・外交政策等についての総括的分析は、それぞれの専門家にひとまず譲りたい。(ずるい逃げ方だとしか感じない)
本稿で私は、第二次安倍政権が201212月に発足し現在に至るまで続いたその間にずっと感じ続けてきた、自分の足許が崩れ落ちるような感覚、深い喪失感とその理由について書きたいと思う。こんな政権が成立してしまったこと、そしてよりによってそれが日本の憲政史上最長の政権になってしまったこと、この事実が喚起する恥辱と悲しみの感覚である。
(上記太字の部分に対する評価をすることを避けての意見は、個人的な感情論ではないのか?)

 この政権が継続することができたのは、選挙で勝ち続けたためである。直近の世論調査が示す支持率は30%を越えており、この数字は極端に低いものではない。これを大幅に下回る支持率をマークした政権は片手では数え切れないほどあった。要するに、多くの日本人が安倍政権を支持してきたのである。
(選挙で勝ち続けたということは、国民が支持したということであるのに、それを否定するというのは、国民を愚弄することそのものではないのか?政策を打ち出す能力がなくて、何にでも反対を唱えるだけの勢力が、国民からの支持を得られないのは当然である。リベラル=共産主義では、国民は安心できない。批判するのであれば、一体誰であればこの重責を担えたというのか?文句を言うのは簡単だが、それだけで済ますのは無責任である。国民は賢い選択をしたのだと思う。)

 この事実は、私にとって耐え難い苦痛であった。なぜなら、この支持者たちは私と同じ日本人、同胞なのだ。こうした感覚は、ほかの政権の執政時にはついぞ感じたことのなかったものだ。時々の政権に対して不満を感じ、「私は不支持だ」と感じていた時も、その支持者たちに対して嫌悪感を持つことはなかった。この7年間に味わった感覚は全く異なっている。
(でも、それを言いたいのなら、ご自分が大多数の国民からはかけ離れた感覚の持ち主なのだと自省してみることが必要なのではないのだろうか?)
数知れない隣人たちが安倍政権を支持しているという事実、私からすれば、単に政治的に支持できないのではなく、己の知性と倫理の基準からして絶対に許容できないものを多くの隣人が支持しているという事実は、低温火傷のようにジリジリと高まる不快感を与え続けた。隣人(少なくともその30%)に対して敬意を持って暮らすことができないということがいかに不幸であるか、このことをこの7年余りで私は嫌というほど思い知らされた。
(大変失礼ながら、自分を何様だと思っているのかと思わされてしまう。意見を述べるのは自由だが、隣人をまで貶めるようなもの言いは、意見とは言えまい。
 少なくとも「汚点」と決めつけるなら、それを納得させることができる理由を述べなければ、公平公正だとは言えないと思うのだが・・・)

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