2013年6月14日金曜日

洗うということ


 清掃のなかには、洗うということが大きな部分を占めています。

 心を洗うということもよくいわれますが、洗うということにはいろいろの意味があります。

 さて、食べ物を洗うということについてでありますが、体の中に入れるものは出るものとは違い、なんであれ、そもそもが綺麗なのではなかろうか。

 それでも、洗って綺麗な方が美味しいことはちがいない。

 宮崎県串間市の幸島(こうしま)の雌サルが、あるとき餌の芋を洗って食べることを覚えた。泥や砂がついていないことは、さぞ口当たりがよかったことだろうが、身内のサルを経由して島全体のサルに伝わった。それが100匹を越えるころになると、突然、海を隔てた大分県の高崎山の猿に伝播した。猿のことであるから、電話もTVも手紙もないのにである。

 この101匹目の猿の話は、シンクロニシティの説明に使われることが多い。

 よいことが皆に広まって、誰もが幸せになるというのは喜ばしいことではあります。

 話はがらっと代わり、昼食を摂ろうと会社の外に出たところ、道路のそこここにカップラーメンの空カップが、捨ててある。というよりは置いてある。

近所にある高等学校の生徒が、コンビニで買い求めて食べた後、置き捨てして帰ったものである。誰がそれを片付けることになるのかは、意識にない。自分には関係ないというわけである。

 一人一人のときにそんなことはしないが、何人か群れると、イキがって恥ずかしいことでも平気でする。他人への慮りなどという人間の持つ徳目などどこへやら、互いに戒めあうことなどさらさらない。「自分さえよければ」という育ちの悪さが如実に現れてしまうところが情けない。

 猿にも劣るこういう行為も、そうする人が増えて伝播したのだろうか。

 私権は公共の福祉に従うということが、絵空事であっていいはずはない。義務セットなのだとまではいわないが、恥ずかしいことはしないに越したことはない。

 でも、話をしてみると本当はいい子が多いのも事実。ワルぶらないと仲間の付き合いができないという風潮を、どこで断ち切るか。

 微力をつくしてはいるけれど、先は長い。

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