仕方なくて他人に助けてもらったことを、恥としてとらえるだろうか?
日本人は、恥というより、それを恩義として恩返しができるようになろうと努力する。
恩であるのに恥としてとらえれば、仕返しすることを考える恥ずかしい人間になるに決まっている。
そういう意味でも、教育というのは人間性を涵養するのに重要なものとなる。
いつまでたっても仲良くできない国というのがある。
戦後労無くして独立を果たし、棚ぼた式に打ち立てられた政権は、日本統治の時代の方が良かったと言われることを恐れ、反日教育を徹底した。それはそれでやむをえない。
しかし、どう考えたって、独立国ともいえないほど疲弊した国とも呼べない状況下にあったところが、近代化を果たすことができたのは、助けてもらったことが多かったからではないのか。
助けてもらったことを恥だとしているうちは、何をやっても無理がくる。
インフラの整備その他いろいろあるだろうが、最大のものは教育であろう。
殆どの人民が文盲であったところに、オンモンと蔑まれて使われていなかったハングル文字を復活させ、学校を作って教育した。
東大に匹敵する大学までつくり教育した。
我が国もそうであるが、教育は発展のための根幹をなす。
個々の恨みの種を血眼になって探し出すのも結構だが、為になったことも恥だとして恨みの種に加えていたのでは、正常な思考は生まれてこないし、学問だって滞る。
反日教育が行き過ぎて国論が纏まらないからと泣きつかれて譲歩した条約や、談話や約束は数多いが、いずれもアダになって返ってくるのが常では、いい加減匙をなげたくなる。
せめて、併合されていて良かったことと悪かったことを列挙して、公平に判断できるくらいの民度には育ってもらいたい。
そんな基本的なことすらできないのでは、歪んだままの思考をもった国民だらけとなり、どこからも相手にされなくなるのではと心配になる。
頭に血がのぼって、国がした約束も守れない国民だと世界から見られていることには気づいたほうが良い。
0 件のコメント:
コメントを投稿