2016年9月17日土曜日

少数意見をどこまで汲み取るか

立憲主義と簡単に口にするが、意外に解っていないで言っている人の方が多いのではなかろうか。
弱者救済、少数意見の尊重という意味合いで使われることが多すぎるようにも思える。
確かに、国あるいは政府の権力は個々の国民より圧倒的に強いから、それを恣意的に行使されないようにする制限というのは必要である。
従って「立憲主義」とは、第一義的には、「為政者が憲法を守る」ということであるが、現代の立憲主義には、それ以上の意味が含まれているようである。
人の考え方というのは多様であるから、その異なる世界観を抱く者同士が、互いに自らの世界観を相手側に強制しようとすることで対立は深まる。完全な合意が得られることはない。お互いの異なる世界観を許容しあいながらながら、自らの自由を享受するということにならなければ、いつまでだっても対立状態は収束しない。得てして合理的思考ではなく、感情的な主張の対峙になりかねない。
それではいつまで議論しても合意は得られないということになる。
国民の大多数が特定の世界観、宗教観を可としても、それを押し付けてはならないし、極端な世界観を国民に強要することがあってはならないが、普通に考えて、非武装中立や無抵抗主義は、近代的な立憲主義に反しているのではなかろうか。
それを押し通せば、大多数の国民の方が実害を蒙ることになりかねない。思想信条は自由であるとしても、それらは少数意見であり、立憲主義の名のもとに特定の世界観を強要するような類の議論に思われて仕方ない。
法治ということは大切であろうが、全てを包括して救済できるような法というのはあり得ないから、緊急時においては、国民の生命財産を守るために、フリーハンドの権力が使われることがあり得るのだという国民的合意が許容されていない立憲主義というのは、かえって危うかろうと思う。
理想は理想として、現実的な世界というのはまだまだ厳しい。

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