2016年9月7日水曜日

無理を通せば道理が引っ込むでは済まない

ものごとを単純化して考えれば、大元にある問題が解りやすいと思うのだがどうなのだろうか?
ややこしいことを付け加えると、本質が見えにくくなる。

例えば公道だとしていたところに「そこは私の土地だ。」と突然言い出して、無理やり構築物を作り、他人が通りにくくなるような軍事施設を作る。
お隣との地境を決めていたのに、勝手に越境してきて不法利用する。
「法を守りましょうよ。」と言っても聞く耳持たず、規定事実化を目論む。

法治というのは、自力による実力行使を避けるために生み出された知恵であるが、実際の外交ということになれば、背景にある軍事力の差がものをいう。

戦力が拮抗するほどにまでそれを高めることはできなくても、手を出せば無傷では済まないと相手に躊躇わせることや、他国と共同して対処できるような備えは、平和の為にはむしろ必要だと考えるのが現実的なのではないのか?

シビリアンコントロールということも良く言われるが、抑制的なのはどちらかといえば軍人サイドだと感じる。
彼我の戦力差や、戦った時の被害がどのようなものと想定されるかを熟知していると思われるからである。

しかし、それよりも前に、自衛隊員の身分というものについて、もっと真剣に考えた方が良いように感じる。彼らを軽んじるような言動が公然としてまかり通るのは如何かと思う。
何をやるにも雁字搦めで身動きがとれずに、法の隙間で働く官僚のようにさえ見える。
死んでも靖国に祀られるという保証はなく、尊敬もされないままで、軽んずる人たちのためにいざというとき命がけで働けるとは思えない。

領土・領海にとどまらず、EEZにはミサイルも飛んでくるが、「話し合いで!」と主張している人たちが話し合いに行ったということは皆無であろう。
仮に行ったとしても相手にされないだろうと思うが・・・

お花畑のような世界ではないと認識しないまま過ごせば、一朝ことあったときには民族的に固まって先鋭化するに決まっている。
戦争を煽るのは、そういうときの民意なのだから、避けるための手段を講じることが、かえって平和のためになると思うのだが・・・

0 件のコメント:

コメントを投稿