2018年6月2日土曜日

蒙古と一緒に襲来した朝鮮半島の兵

蒙古襲来のお先棒を担いだ高麗25代王・忠烈王(在位1374-1308)。
蒙古の侵攻に抗しきれなかった高麗は、蒙古の属国となるほかなく、彼は人質として蒙古で暮らしていた。
この時から‘祖’や‘宗’のような先王に対する廟号が消え、高麗はモンゴル帝国の諸侯国になった。‘忠誠’の‘忠’の字の付いた王が‘帝国の辺境’を委任統治することになったのだ。

その地で、元の世祖フビライ(在位1260-94)の娘婿になった忠烈王であるが、フビライの野心が日本列島のまで及んだ時代であり、高麗は倭征伐に向かわなければならなかったというが、日本侵攻を奨めることで蒙古のご機嫌取りをしようとしたのではないのかと思われる。
その結果は惨めである。
軍船の建造を期限を決めて900隻も押し付けられ、若者の多数を兵として出さざるを得なかった。しかもその大半は海に沈み、生きて国に帰れなかった。

1281年の2次征伐は戦艦5000隻、16万人の兵を超える大規模な遠征隊だったが、その圧倒的多数は当時征伐を終えたばかりの南宋の軍人だった。結局、烏合の衆の‘敗残兵’が日本遠征の主力になったのだ。このうち10万人が帰還できなかったという。上陸もできずに暴風を受けて溺死し、なんとかたどり着いた兵も敗走したため、数万人が敵地で孤立し、殺戮された。

集団戦に慣れない日本側が苦戦したと歴史では習ったが、実際には長射程の長弓を使い騎馬で戦う鎌倉幕府の武者は勇敢で、地形を利用して戦ったので強かったのだという。
神風が吹いたというのも定説になっているが、高麗が作った船は粗製乱造であり、互いがぶつかり合うとすぐに沈んでしまったらしい。

忠烈王は2度の求婚、5年を待って39歳の年齢でフビライの17歳の娘と結婚した。高麗武人政権がようやく終末を告げた時期である。王権強化のための政略としてモンゴル帝国の皇帝の娘婿になったが、その代価は過酷なものだったということになる。

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