2018年7月16日月曜日

自然が相手のものには長い観点が要る

地球環境が危機的状況だということで、それは森林保護運動にもつながった。
森林破壊が進んでいる、だから自然保護をもっと行わなくてはならない。緑を大切にしなくてはいけない。
緑を求め開発を弾劾する声は絶えないし、おそらく、これらの意見に正面切って反対する人はいないだろう。
しかし、同時にこれらの風潮に何かうさん臭さを感じている人もいるのではないか。
一時期、「マイ箸運動」というのが流行った。使い捨ての割り箸は、木材の無駄遣いだからというので、正義の味方を標榜する人たちは自前の箸を携行した。
割り箸は間伐材を利用するものであり、間伐が山林を守るのだということを理解している人は殆どいなかった。
山を守るということは、木を伐らないということと同一ではあるまい。
きれいごとのスローガンに安易に乗ってしまったということなのであろう。

結果として日本の林業は衰え、山林が荒れるにまかされるようになったように思えてならない。
計画的に植林と伐採により保たれていた山林の樹木はそのサイクルが乱れ、杉などが増えすぎて、花粉症の原因となっているのではなかろうか。
日本の樹木を伐るのは罷りならぬというので、海外からの輸入に切り替えたというのでは、本末転倒で身勝手が過ぎるように思えてならない。
手入れされていない山は、颱風などによる大雨で崩れる可能性が高いように思える。

田圃もそうである。
コメ余りだとかいうことで、極端な減反政策が続いた。
長く放置された田んぼには樹木が根を張り、田んぼの底を抜いてしまった。田としての機能が壊れてしまったということである。
田圃の持つ保水能力が洪水を防いでいたのだと思えなくもないが、壊れてしまった田圃を今から取り戻すのは容易ではあるまい。

自然保護は大事だが、ウソっぽいものも多い。でも「絶対の正義」としてふりかざされる自然礼讃の意見に反論できないでいる間に、事態は進んでしまう。
だが、胡散臭さを感じたら、思い切ってそもそも主張が間違っているからだと考えてみてはどうだろうか。
本質がどこにあるのかを自分でも考えて判断するようにしてみる。付和雷同して尻馬に乗るだけですまさないようにすることで、バランスのとれた考え方になるように思える。


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