2018年7月21日土曜日

大昔から学問を大事にした

世界の陸地面積は、およそ1億4千7百24万4千平方キロメートル。人口は70億人と言われている。
その中にあって日本の国土面積は37万平方キロメートル(0.25パーセント)、人口は1億2千300万人(1.75パーセント)に過ぎない。資源も決して豊富ではない。
それでいて西欧列強は、諸外国との交易を断っていた極東の島国である日本を、支配して植民地化することはできなかった。
しかも鎖国を解いてほんの数十年で、世界の3大強国である米・中・露と戦争をしたのである。そんな国は日本以外にはない。
アメリカには負けたが、その他の国と戦って敗れたことはない。
敗戦により壊滅的な打撃を受けて焼け野原と化した国が、半世紀も経たないうちに、戦勝国をしり目にまたまた世界の経済大国として躍り出てしまったのである。
その原動力となったのは一体何なのだろうか。

一つには教育というものがありそうである。学校での勉強というもののことではない。
万葉集というのがあるが、それに収録されている和歌は、貴族など上流階級のものばかりではない。他国でなら下層階級の扱いしか受けないであろう身分の者の歌も多数含まれているのである。即ち、身分は低くても文字が読み書きでき、その携わっている仕事も認められていたということになる。体を使い額に汗する仕事をする人も、手足を使い物を造り出す技術をもつ職人も、決して軽んぜられるようなことはなかった。
上に立つ者が、民と共に汗をかくことを厭うようなこともなかった。

こういう土壌がないと、技能が伝統として継続進化する文化は育たない。家業として受け継がれることなく廃れてしまうものが出なかったことで培われた底力というのも大きいに違いない。
何をするにも継続されていることで育った基礎力というものがあった。

それでも及ばないものがあれば素直に学び、それをより良いものに改善する努力を惜しまなかった。
しかもそれらは、自分さえ良ければという発想には結びつかず、人々の役に立つことをするのが喜びであった。
そればかりではなく、他人の技術をパクッて、それで得をした気分になるようなことを潔しとしない民度があった。自分が研鑽することで感じるものが、他人の努力を認め敬うことができたからであろう。
恥になることや他人に迷惑をかけることなく、公のために尽くすということが自然にできるのが、誰に言われなくとも身に染みついていた民族であったからだと思えてならない。

目先の損得ばかりを教える親が増えてきていないだろうか?地道な努力で基礎力をつけておかなければ、その場凌ぎはできても長持ちはしない。

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